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2006年5月 5日 (金)

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅱ)

当小論をもとにした評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
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 ここで少し話が横道に逸れてしまうが、昨日、文庫本上下で出ていた「海辺のカフカ」を購入した。まだ読み終えてはいないのだが、この時点でもこれだけはいえると思う。これはゲーム本のような書かれ方をしている。要所で、世界的に著名な古今の哲学や文学の本からの引用が行われるが、それらは徹頭徹尾アイテム、便利な道具として使われているのだ。悪用されているといえる。

 プラトンの「饗宴」、バートン版「千夜一夜物語」、フランツ・カフカ「流刑地にて」、夏目漱石「坑夫」、「源氏物語」、ソフォクレス「エレクトラ」「オイディプス王」、T・S・エリオット、上田秋成「雨月物語」、ヘーゲル、アントン・チェーホフ、ジャン・ジャック・ルソー……哲学、文学ばかりではない。音楽も、映画も。

 村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか! これらについては、一つ一つ細かくチェックしていく必要がある。評論家たちは、一体何をしているのだろう。勢力のある作家、それと同じ匂いのする新人をよいしょする以外に、仕事はないとでもいうのか?

 これがカフカ賞? ノーベル賞の可能性? 全くぞっとする。これはもやは社会問題ではないだろうか……! 村上春樹はこれを娯楽小説として書いたのだろうか、純文学作品として書いたのだろうか? 仮に娯楽小説として書いたとしても、娯楽小説であれば、何を書いてもどんな書き方をしてもいいというのだろうか。

 オウム真理教が惹き起こした地下鉄サリン事件の被害者たちへのインタビューを行ったのは、この人ではなかったか。その当時、なぜ村上春樹がそこまでするのだろうと怪訝に思ったものだが、今はなるほどと思う。オウム真理教の教祖麻原彰晃(松本智津夫)と村上春樹の物の考え方には共通点があるからだ。先に挙げた引用の仕方などは、まさにそうだ。一方が引用を小説を書くためのアイテムとし、他方が聖典からの引用を説教するためのアイテムとしたという違いがあるだけなのだ。

 自分の話になってしまうが、わたしは神智学を知りたいと思い、もうお亡くなりになったが、当時の神智学協会ニッポンロッジ長に手紙を書いたのがきっかけとなって、長年文通していた。会長は、わたし以外の会員たちともよく文通されていたようだ。その文通の中でだったと思うが、彼女に注意を促がされて、記憶に焼きついたことがある。

 それは引用の仕方に関することで、引用というものは、引用しようとする著作を背負ってなされなければならず、著作全体の意味合いとのバランスを考えてなされなければならないということだった。自分の都合で勝手な引用をしてはいけません、ということだろう。

 そういわれても、現実にはなかなか難しい。悪用する動機からでなかったとしても、自分ではその著作を理解しているつもりで実は理解できていないということがあるだろうし、そうすれば結果的に悪用することになってしまい、もし完全に理解するまで引用してはならないというのであれば、わたしなどは死ぬまで引用することができないだろう。

 そこでわたしは必要を覚えたら引用してしまうことにしているのだが、そうしようとするたびに彼女の警告の言葉が頭の中で鳴り響く。図書館へ行かなくてはならなくなる。畏怖の念を覚えながら、こわごわ引用する(それくらいでは軽率さは否めないのだが)。

 ありがたい忠告だったと思う。これは自分自身との関係も含まれる対人関係についてもいえることで、人間理解の鉄則でもあるだろうから。ある人の一面だけを見て、決めつけたり利用したりしてはならないということ。いや、人間についてばかりではない。動物、自然、大宇宙、次元の異なる世界についても同様に……。観察力を研ぎ澄ませ、注意深くあろうと努めることは、様々なものとのバランス、可能な限りの共存という点で、無意味ではない。

 バルザックは、人間を描く場合でも、容貌から生い立ち、時代背景、何を食べ何を着、どんなところに住んでいるかまで細密に描くことから始めた。導入部の長さから退屈だといわれ、現代では敬遠されがちな作家であるが、退屈ならいくらか飛ばしながらでも構わない、先へ先へと読んでいくと、そのうち視界がひらけて、やがて、この世で体験できるとは予想だにしなかった光と影、香りを知り、甘露が味わえるのだ。

 村上春樹は人物であろうが状況であろうが、お気に入りを手軽に拾ってくる。そして彼の作品の特徴は断言と断定で、それが日常的な些細な事柄でも思想を語る場合でも、同じ調子で繰り返し行われる。全く同じ調子で――というのが、際立った特徴となっている。一種悟りをひらいた人の言葉であるかのような装飾がほどこされているのだ。

 だが、そうされることによって、こちらの既にひらけていた視界、ひらけようとしていた視界は閉ざされ、先へ先へと読み進むほどに閉じていくばかりの世界を体験していくことになる。そして読後に味わうのは、虚無感、倦怠感だ。尤も、これはわたしの特異な感じ方にすぎないのかもしれない。何しろハンバーガーが売れるように売れる人気作家なのだから。

 ただ、わたしが思うには、村上春樹は「ノルウェイの森」を書いた時点ではどちらに行くこともできたはずだった。精神を病む直子の描写は丁寧で繊細、その筆遣いは時に抒情味を帯びて美しくさえあり、わたしの友人に統合失調症の女性がいるけれど、病態の特徴がよく捉えられていると思う。この場合も、捉え方が一面的にすぎる嫌いはあるのだが。

 ここで話を元に戻して、「ノルウェイの森」の主な登場人物を挙げてみたい。〔

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