イングリット・フジ子・ヘミング(Ⅱ)
(承前)
プログラムには、ドビュッシー、ショパン、スカルラッティ、リストの名があった。ドビュッシーは『版画』の3曲。ショパンはノクターン2曲、ワルツ1曲、エチュード8曲。スカルラッティはソナタ2曲。リストは6曲。そして、フジ子がアンコールに応えて弾いた曲はドビュッシー「月の光」とモーツァルト「トルコ行進曲」だった。彼女はこのリサイタルで、全24曲をよどみなく弾いたことになる。呼吸は整えられていて、演奏に乱れは感じられなかった。
実は、テレビで奏楽堂でのリサイタルの模様を観たとき、また、わが家にある5枚のCDを聴いたとき、曲によるのだが、重い、まどろっこしい、うまくオーケストラについていっていない、といった風なことを感じさせられることが皆無とはいえなかった。
何しろフジ子自身が、「人間なんだから、少しくらい間違えたっていいじゃない。機械みたいに完全すぎるのは嫌い」というのだ。それで彼女を、危うさを爆弾のように抱え込んだピアニストと捉え、彼女が少しとちったくらいでは失望しないだけの心の準備をし、わたしはリサイタルに出かけた。
ところがそうした危惧は、プログラムの早い段階で消え去った。演奏にはびくともしない安定感があり、この夜の彼女は最初から最後まで見事だったと思う。高年に入ってからの再起を賭けたデビューだったけれど、フジ子は1曲弾くごとに舞台慣れし、円熟味を増しているのではないだろうか。少なくとも、それだけの努力を自身に課す人であることは間違いないようだ。
世に出られない長い、気の遠くなるような時間を、拾ってきた猫たち、ピアノと共に過ごし、自分の能力をいつでも直ちに大舞台に立てるほどの水準に保ってきたのだ。それが並大抵の努力では済まないことくらい、わたしにも想像がつく。照明を落とした夜の部屋で、フジ子の演奏を聴いてきた猫たち。猫たちは、今日どれほど彼女を好む聴衆よりも、一等優れた聴き手であったのに違いない。
休憩時間に後ろの席の女性が、「彼女の演奏って、どこか他の人とは違うのよね。心に沁みるわね……」といっていた。他の人と違う理由は、いろいろと挙げることができる。日本人――ことに日本女性――のピアニストには、演奏中、何かが憑いたのではないかと訝りたくなるくらいに眉を顰め、目を固くつぶり、身をくねらせる人が少なくない。あれは一体、何なのだろう?
ありがたいことに、フジ子はそんな見苦しいパフォーマンスとは無縁であって、演奏中ずっと理性的な、静かな表情だった。リストの「ため息」が、物憂げに、物哀しげに、それでいて敬虔なおもむきで奏でられるには、理性による客観視と自己制御が必要であるのに違いない。演奏中のフジ子はそれを想像させるような、自己陶酔とは無縁の、多方面に意識を働かせている統監者の顔、分析者の顔をしていた。
わたしはこういうところに、彼女が半分血を受けた欧州の自然や文化の香りを感じるのだ。実際に、生で見るフジ子は日本人というより白人に見えた。手も大きく、肉厚で、指はかなりの太さだろう。白人の男の人のような手だと思った。鍵盤を充分制圧できるだけの手だ。
日本人のピアノ演奏は、どうしても、線が細くなりがちだ。彼らの技術も精神力も、牛のように屈強なピアノという楽器には、追いつかないところがあるように見える。ところでわたしは昔、お産のとき医師に、「顔でお産をするな」といわれた。そういわれても、力を入れるべきところにうまく力を入れられないと、つい顔だけで力んでしまうのだ。
日本女性のピアニストに多い顔や身振りを使った過剰なパフォーマンスは、ムードづくりのための演技かと思ったこともあったが、むしろそうした余裕のなさのあらわれではないだろうか。自己陶酔である可能性もあるが、それも芸術性の欠如からくる。
ずんぐりむっくりしたフジ子の指を長くすれば、ロシア人の巨匠リヒテルの手になるに違いない。あの手は、女性であるということ、東洋人であるということのハンディを軽く吹き飛ばす。わたしが先に、彼女が肉体的な条件に恵まれているといったのは、こうした点を指す。
反面、彼女が調子が悪いとか、オーケストラと相性が悪いとかいう場合には、あの指の太さがわざわいに転じて、いらぬ鍵盤に指をひっかけさせたり、演奏を鈍らせたりするのだろう。それくらいのことは仕方がない。心に沁みる音色をつくるにはどうしたって、あの肉の厚みが鍵盤を沈めることでつくり出す陰影が必要なのだから。
フジ子が弾いた曲はどれもこれもすばらしく、それぞれに忘れがたいのだが、プログラムの中で1曲といわれるとするなら、ドビュッシーの「雨の庭」を挙げたい。この曲では、まるで波紋のように、幾重にも音色が重なったのだ。どうペダルを踏めば、あのように、混濁しない、紗のように重なる音色がつくり出せるのだろう?〔了〕
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