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2006年5月 7日 (日)

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅲ)

当小論をもとにした評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
    ↓

  

(Ⅰ)へ(Ⅱ)へ
  『ノルウェイの森』の主な登場人物

●ワタナベ君……主人公。神戸高校を出、東京の私大に進学。●キズキ……主人公の高校時代の友人。高校在学中に自殺。動機は不明。●直子……主人公に恋される女性。キズキの幼ななじみであり、恋人でもあった。東京の女子大に進学するが、精神を病むようになる。療養施設に入るが、やがて自殺。●永沢……主人公が寮で知り合いになったハイセンスな年上の男性。東大卒業後、外務省。その後ドイツへ。●ハツミ……永沢の恋人。永沢がドイツへ行ったあと「ふと思いついたみたいに」自殺。●緑……主人公と大学が同じで、同じ授業を受講したことから恋人同士になる。実家は書店を経営していたが、父親が亡くなり、姉と決めて店を閉じる。●レイコ……精神療養施設で直子の同室者。ピアニストを志すが挫折。ピアノ教師をしていたときに教え子の少女の悪意から社会的迷惑を被り、精神を病む。

 『ノルウェイの森』の主な登場人物を一応挙げてみたが、いざ挙げようとして戸惑った。というのも、主な登場人物ともそうではないともどちらともいえない登場人物が多いからだ。

 例えば、小説の始まりの部分で、37歳になった主人公がドイツのハンブルク行きの飛行機の中でBGM『ノルウェイの森』を聴いて動揺を覚え、顔を覆う場面に登場するスチュワーデス。主人公を気遣って言葉をかけるのだが、一度離れたあとで再び主人公のもとへやってきて、隣に腰を下ろしてまで気遣う。

 「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから」と主人公がいうと、スチュワーデスは「そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります」といい、立ち上がって素敵な微笑を主人公に向ける。

 このスチュワーデスがなぜ主な登場人物ともそうでないともいえないのかというと、『ノルウェイの森』に登場する女性はほぼ全員がこのスチュワーデスと同質の役割を担っていて、主人公の慰安――性的処理が含まれる場合もある――を司る存在であり、そういった意味において象徴的な存在ともいえるからなのだ。

 女性たちは過剰なまでに、ときには異様なまでに主人公に理解を示す存在として描かれる。ある女性で足りなければ別の女性が追加され、それでも足りなければさらに追加されるという風だ。物語のスタート地点にスチュワーデスがいるとするなら、ラスト地点でタオルをひろげて主人公を待つのはレイコという女性だ。主人公にとって必要がなくなれば、彼女たちはタイミングよくどこへともなく消えていったり、死んでいったりする。

 『ノルウェイの森』はリアリズムの手法で書かれているといわれるが、これでもそうといえるのだろうか。現実には、物事はそう都合よく運ばないものだと思う。頁を多く割いて語られ、主人公を最も悩ませる存在であるはずの直子も自殺を遂げて消えていくし、最終的に主人公が女性たちのあいだから選択したといえる――直子と一見対照的に映る――溌剌とした前向きな女性である緑でさえ、同じ運命をたどることが暗示されていないでもない。

 小説の終わりの部分で、主人公が緑に電話をかける場面が出てくる。主人公は「何もかもを君と二人で最初から始めたい」という。すると緑は長いあいだ電話の向こうで黙り、沈黙を続けたあとで「あなた、今どこにいるの?」と静かな声で問いかける。主人公はそれに対して、答えることができないのだ。自分がどこにいるのか認識できない。認識できないまま緑を呼び続けるという主人公の心象風景だけが描かれて小説は終わっている。

 その後、主人公と緑の仲はどうなったのか。それが読者に明かされることはなく、18年という月日が経過し、初めの飛行機の中の場面となるわけなのだ。緑もまた他の女性たちと同様、消えていったとも考えられる。そう考えれば、この小説は一見ノスタルジックな繊細なムードをまとっているようでありながら、実際には死屍累々たる小説だといえる。勿論、そうしたのは作者以外にありえない。

 男性たちは不必要だからか、極めて存在感に乏しい。主な登場人物として挙げていいのかどうか迷ったくらいだ。わたしは先に、村上春樹の小説は哲学的な構築がなされていず、日常的な思考域の中での思いつきを綴り合わせたにすぎないと放言したけれど、人物の気ままな扱い方からも、そうとしか思えなかった。

 ネットで、『海辺のカフカ』について新潮社が作者の村上春樹にインタビューした記事を見つけた。そこで「この小説はいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?」という問いに答えて、彼は次のように答えている。

〔いや、そういうものは何もないんです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えていない。最後がどうなるとか、いくつかの話がどう結びつくかということは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。〕

 『ノルウェイの森』が『海辺のカフカ』と同じような書き方をされたかどうかはわからないが、わたしには同じご都合主義の臭いがする。『海辺のカフカ』を読みながら、本当にわたしが憔悴してしまうのは、死屍累々の光景が拡大され、即物的な描写が目を覆うばかりにリアルなものになっているからだ。以下は、そのごく一部分だ。

〔ジョニー・ウォーカーは目を細めて、猫の頭をしばらくのあいだ優しく撫でていた。そして人指し指の先を、猫のやわらかい腹の上で上下させた。それからメスを持ち、何の予告もなく、ためらいもなく、若い雄猫の腹を一直線に裂いた。それは一瞬の出来事だった。腹がぱっくりと縦に割れ、中から赤い色をした内臓がこぼれるように出てきた。猫は口を開けて悲鳴を上げようとしたが、声はほとんど出てこなかった。舌が痺れているのだろう。口もうまく開かないようだった。しかしその目は疑いの余地なく、激しい苦痛に歪んでいた。〕

 このような息も詰まる残酷な場面が、何の設計図もなしに書かれ、無造作に出てくるというのだから驚く。作品が全体として現実とも幻覚ともつかない雰囲気に包まれており、主人公がまだ15歳の少年ということを考えると、作者の筆遣いの無軌道さには不審の念すら湧いてくる。『海辺のカフカ』については、また別に見ていきたいと思っている。

 ただここでわたしは、『海辺のカフカ』で猫が殺害される場面を読みながら、それに、『ノルウェイの森』で直子がワタナベ君にフェラチオをする場面が奇妙にも重なってしまったことに触れておきたい。

 恋愛小説には型というものがあり、『ノルウェイの森』とバルザックの『谷間の百合』は類似したスタイルをとっている。『ノルウェイの森』の主人公ワタナベ君も、『谷間の百合』の主人公フェリックスも共に、甚だ障害の多い叶えることが困難な恋愛をする。ワタナベ君の場合は精神を病む直子が相手であり、フェリックスの場合は2人の子持ちの人妻モルソフ夫人(アンリエット)が相手だ。

 そして両者が相手を裏切ることは共通しているが、その内容にはかなりの違いがある。フェリックスの場合は単純に肉欲に負けてしまう。モルソフ夫人は敬虔なキリスト教徒で、彼に決して肉体を与えようとしないことから、乗馬とセックスの達人ダドレー夫人との肉欲に溺れてしまうのだ。それが原因で、フェリックスは全てを失くす。彼には仕事が絡んだ社会的な立場の確保、維持ということの大変さが常につきまとっている。モルソフ夫人はこの点でも、こよなき助言者だったから、フェリックスは二重三重の苦境を味わうのだ。

 フェリックスのあやまちに対して、周囲の人間たちは皆、非情すぎるくらいに非情だった。『イブの娘』という別の作品でバルザックは、フェリックスのその後の姿を描いている(随分昔邦訳されたことはあるようだが、わたしは梗概しか知らない。現在娘が英語版からの訳を試みていて、悪戦苦闘中)。その作品では今度はフェリックスが妻に苦杯を嘗めさせられることになるのだが、そのときの彼は人間的に成熟していて経験ゆたかな動きを見せるようだ。ここにかつての愛人ダドレー夫人の復讐が執拗に絡んでくるところも、芸が細かい。

 一方ワタナベ君も肉欲に負けるが、この場合は当の直子にフェラチオをして貰い、直子の恋敵である緑にも手で射精に導いて貰うという奇怪な展開となっている。直子は膣が乾いていてペニスを挿入できない状態にあり、緑に対しては、彼女との希望に満ちた関係を再スタートさせるまで挿入しない決意を固めていたため、どちらとも性交しない結果となったのだった。彼はのうのうと次のように物語る。

〔僕が最初に思ったのは、直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように感じられてしまうのだ。〕  

 そして、感傷的に完結することができる程度の精神的な痛手を被ったことを別にすれば、彼が健康的で日向的な志向性を持つ緑を選んだことで被った損害は大したことがないように思える。作者は、直子に本当はワタナベ君を愛してはいないということを繰り返しいわせて、主人公を罪の意識から遠ざける仕掛けさえほどこしている。これを直子の恋ごころの綾ととれないこともないが、もしそうだとすると、主人公の鈍感さは歯痒いばかりだ。 

 直子が自殺したことの喪失感すら主人公は、直子と療養施設で同室だったレイコから手紙を贈られたりセックスをして貰うことで、慰められる。主人公との最後の夜、直子はどう読んでも、やむなくフェラチオをしたというのにだ。直子は、自分が捨てられようとしていることを予感していたため、乾いていたのではないだろうか。

 いずれにせよ、乾いているにも拘らず直子が自ら性的な行為に及んだのは、自己犠牲から以外は考えられない。『海辺のカフカ』で猫が殺害される場面にこの彼女の自己犠牲が重なるのは、この場面を描くときの作者の姿勢にあるのだろうと思う。この場面を描くときの作者の筆遣いは極めて軽快で、即物的な無邪気さを湛えている。だからこちらも軽く読んでしまうのだが、あとになってなぜか残酷な場面として甦るのだ。女ごころはこんなものではないと感じられるからだろうか。

 ただ、こうして直子が不感症になったりならなかったりするのも不自然な話ではある。直子の幼ななじみで元々の恋人だった本当に愛していたというキズキに対しては不感症、直子の20歳の誕生日にワタナベ君とセックスしたときはそうではないのに(このとき直子にはもう精神疾患の徴候があらわれている)、療養施設ではまた不感症となっている。不感症になったりならなかったりと、作者の勝手な都合で操作されているとしか思えない不自然さだ。

 それに対して、モルソフ夫人が今わの際でフェリックスに対して示す愛欲の念は、わたしには自然に感じられるのだ。以下にその部分を引用(石井晴一訳、新潮文庫)してみたい。

〔私の目に涙がにじんできました。私は花を眺めるふりをして、つと窓の方に顔を向けました。ビロドー師は急いでそばにやってきて、花束の上に身をかがめながら「涙をお見せになってはいけません」と私の耳にささやきました。

「アンリエット、それでは私たちの谷間がもうおきらいになったのですか」私は自分の不意な動作をつくろうように彼女にいいました。

「いいえ、好きですわ」彼女は甘えるように、私の唇に額をさしだしながら言いました。「でも、あなたがいらっしゃらないと、谷間もひどく物悲しくて……そう、私のひとがいてくれないと」彼女はその燃えるような唇で、私の耳にかるくふれながら、この最後の言葉を溜息のようにささやきました。

 二人の神父の恐ろしい話を上まわる、この狂おしいばかりの愛のしぐさに、私は思わずぞっとさせられました。〕

 ぞっとさせられたというフェリックスの言葉に、わたしも共感できる。モルソフ夫人が気品に満ちた女性であることを知っているからだ。同様に、直子も病んでいるとはいえ――病んでいるからこそかもしれないが――精神性の勝った、繊細で、透明感のある女性であることも知っている。だからこそ、心理的に今わの際にあったといっていい状況でフェラチオをする直子にいたたまれなくなるのだ。だが、その痛みを最も感じうるはずの作者が感じていない。

 『ノルウェイの森』は、日本の伝統的な娼婦小説の系譜に連なる作品といえないこともない。近頃では女性自ら、娼婦小説を書くのはどういう訳だろう? そうした男性の性に媚びたような作品に、文学賞の最終選考でわたしはいつも蹴落とされる。

  ざっと『ノルウェイの森』を見てきたが、気力が回復すれば続いて『海辺のカフカ』を見ていきたい。露骨な表現の散見されるエッセーになってしまったことを、お許し願いたい。〔了〕

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コメント

はじめまして。医師をやっておりますKと申します。
私は「ノルウェイの森」は好きです。
確かに女性からみると主人公と彼に関わる女性の描かれ方がきに入らない気持ちはわかります。
しかし、統合失調症患者の家族や友人がこの本を読んだときに、この物語の主人公に共感できる部分があるからこそ多くの人に支持されているのではないかと思うのです。
一生をかけて支えていかなければならないという義務・責任を感じながらも、その一方で人間ですから泥臭い欲もある。そういった葛藤と理想通りには生きられない人間の常が強調されて描かれていると思います。
強調の方法として性的描写が多いですが、もしこの部分をより現実的に、不自然のないように書き換えるとすると、欲望に負ける様の描き方としては実に弱い文章となるでしょう。
村上春樹さんの人間性の問題ではなく、小説が作品である以上、当然の手法だと私は考えます。

投稿: K | 2006年11月20日 (月) 23:52

K様、ご訪問とコメントをありがとうございました。

わたしには統合失調症の友人があり、30年になるおつきあいです。
他に、同じ病気で既に亡くなった知り合いもいます。その人はわたしが高校生のときに自殺しましたが、最初のときに電車に飛び込んで死ねず、片脚が義足になり、右手が使えなくなりました。次にビルから飛び降りて亡くなりましたが、発見されたときは息があり、悲惨な状態で亡くなりまして、体が腫れ上がっていて棺に入りきれませんでした。
統計的にいえば、統合失調症という病気は決してまれな病気ではないようですね。

わたしは亡くなった人が大好きでした。
また、ずっと統合失調症と闘い続けている友人は女性でして、わたしも女性ですので、異性としてではありませんが、友人としてワタナベ君に劣らず、責任を感じていますし、葛藤も覚えてきました(彼女は大学時代、天才肌といっていいような詩を書きました。当ブログの9月16日付記事『喉まで出かかった言葉』をご参照ください)。
ご両親が年老いてこられたこれからの彼女の将来のことや、政府の新自由主義政策の進む中で、むしろ精神障害者にとって非情になってきているとしか思えない社会のありかたを思うと、暗澹とした思いに駆られ、眠れないことさえあります。
そして、現在日本社会を覆っている虚無的で性犯罪の多いムード、ことに性教育という点で子供たちが置かれた好ましくない状況にも、大人の一人として心を痛めてきました。(当ブログの11月12日付記事「新聞記事『少女漫画の過激な性表現は問題?』について」をご参照ください)。

上記した以上のような点から、一般的な読者に比べて、性のあり方に関しては手厳しい読み方となってしまったのかもしれないと若干の反省は致しますが、作品の好き嫌いでこのエッセーを書いたわけではありませんし、またK様がおっしゃる小説手法上のことに関しましては見解の相違を覚えます。

誤解があるようですが、性描写自体が悪いなんてこと、わたしは思っていませんよ。
わたしも結構書きますもの。

文学作品の書き方も評価のあり方も流通のあり方も様々です。売れているからといって、その作品がいいとは限りませんし、売れているから悪いとも勿論いえません。
本当にいい作品かどうかをご存知なのは、ミューズだけだろうと思っています。
統合失調症を病んでいる人にしても、病気が悪いとき以外は普通の人と変わりありませんから、『ノルウェイの森』を読んで抱かれる感想は様々だろうと考えています。
患者の家族や友人も同様に……。
実際、アクセス解析を見てみますと打ち込まれた検索ワードは様々でして、読者の様々な読み方が想像できます(当ブログの10月23日付記事「村上春樹の小説とはあまりにも違う…パムク著『わたしの名は紅』『雪』」をご参照ください)。
人間の考え方は一律ではありません。
『ノルウェイの森』に登場する女性たちの考え方が一律すぎるところに問題がある、作者の姿勢が問われるとわたしは考えているのです。

なにぶん、素人のエッセーですので、読んでいただけるだけでありがたい気持ちです。
これに懲りず、またご訪問くださいね。

投稿: マダムN | 2006年11月21日 (火) 02:32

blog中の記事を幾つか拝見させて頂きました。身近な方が壮絶な死をなさったこと、心中、お察しいたします。

私個人の主観的な読み方をあたかも一般的読み方であるかのように申し上げてしまい、お恥ずかしい限りです。

私は文学に関しては無知に等しいので、小説の中の登場人物のあり方について、問題視されるべきものなのか困惑しております。
マダムN様が問題視されているのは
①小説中の女性が主人公に対しいわば慰安婦のような関係でしか描かれておらず、読者個人ひいては社会全体(性教育を含め)に対し悪影響を与えること。
②小説中の女性が画一的に描かれており、そういった意味で未熟な文章または恣意的な文章であり文学賞の候補に挙がるような日本文学としては批判されるべきであること。
ということで理解して宜しいでしょうか。


政府の新自由主義政策が精神医療にもたらした変化といいますと、精神科病床数の削減し社会的入院から地域で暮らすというノーマライゼーションの促進、およびそのための障害者自立支援法などの法・制度の整備などが挙げられると思います。
マダムN様が「精神障害者にとって非情になってきているとしか思えない」とお考えになるのは、具体的にはご友人の方(保護者が健在で、精神通院できる方)に今後どのような不利益が予測されるからでしょうか。
(患者様やご家族と接しておりましても、医学的な悩みはよく耳に入りますが、社会的な悩みに関しましては、精神保健福祉士の方に頼りきっているものですので実情をなかなか汲み取れないでおります。)

投稿: K | 2006年11月21日 (火) 22:56

K様
再度のご訪問、そしてご丁寧なコメントをありがとうございました。

わたしは作家志望というだけで、一素人にすぎません。
素人だからこそ、芸術の一分野を占める文学作品というものはこうあるべき、と高らかに世に問いかけたく思ったり、気ままな批評文も書けたり、といった自由感と抑制のなさがあるともいえます。
『ノルウェイの森』を読んでこんな風に感じた人もいる……という程度にお考えくださればと思います。
このエッセーは感じたことをちょっと書くつもりで記事にしたものにすぎません。
評論といえるような、もう少し本格的に見ていったものを、いずれ(来年の夏くらいになりそうですが)同人雑誌に発表したいと考えています。

障害者自立支援法の問題点は、国会でたびたび採りあげられてきましたし、テレビや新聞、あるいはサイトなどを通しても伝わってきます。
わたしの友人の統合失調症患者に関していえば、現在のところは家族の支えもあり、経済的にも、いいお医者様にも、様々な点で恵まれているほうだと思います。
ただそれはあくまで現時点では、といえるにすぎません。
ご両親の高齢化もあって、支えてきた家族に疲れが目立ち始めました。
いずれ彼女が一人になったとき、どうなるのか……。
酷ないいかたをすれば、保護者が健在であるのは時間の問題であり、過去に数回の入院歴がある彼女は環境の変化に敏感で、ふとしたことから急に病気が悪くなることがあります。
彼女の将来のことを考えれば、福祉の充実、完備したサポート体制が絶対的に必要です。
が現実には、社会的入院から地域で暮らす方向へ、という謳い文句は立派でも、自立支援法の不備一つとっても地域にそれだけのサポート体制があるとは思えませんし、小さな政府にして福祉予算を可能な限り削るというのが新自由主義のやりかたですから、今後もそれがどの程度望めるものか、はなはだ不安なのです。

信頼しているお医者様に対してであっても、経済的なことや家族の疲労については相談しにくいところがあるかもしれません。

同人雑誌に提出しなければならない小説があり、バタバタしておりまして、まとまりのない文章になりました。
また何かお話ししたいこと、お尋ねしたいことが出てくるかもしれません。そのときはよろしくお願い致します。

マダムN  

投稿: マダムN | 2006年11月22日 (水) 22:09

はじめまして。
都内で学生をしている者です。

批評内容を全面的に肯定するわけではありませんが、特に引用の仕方、女性特有の感じ方に関する分析には目から鱗が落ちる思いがしました。

私は村上春樹の作品を読むと、読後に必ず違和感のようなものを感じていたのですが、その正体・原因が何なのか分からずにいました。

しかし、マダムNさんの批評を読んでみてそれが分かったような気がします。彼の作品はあまりにも自慰的・自己完結的過ぎて、生来懐疑的な(私はこの性質を肯定的には捉えていませんが)私にとって十分な理解・納得を得られるものではなかったのではないかと思いました。

ところでひとつ質問があります。
「娯楽作品」と「文学作品」とを峻別する理由が私には分かりません。第一に、それは作者本人が決めるものではなく、他人が、いわば後から勝手に分類するものであり、第二に、そもそも文学作品は(フィクションという性質からして当然に)娯楽性を備えているものではないかと思うからです。
もしとんでもない的外れな質問をしてしまっているようでしたら、若輩ゆえと笑ってやり過ごしていただけますと助かります。

TO

投稿: TO | 2007年8月12日 (日) 23:04

ご訪問、ありがとうございました。感想についても、お礼申し上げます。

文学作品に関する定義は諸説あります。
わが国ではひと頃、純文学などというものはないという考え方が流行りました。貴方は、その考え方の影響を受けていらっしゃるのではないでしょうか。わたしはそれ以前の考え方の影響を受けて育ちました。

エッセーの中でわたしは文学作品、娯楽作品といいましたが、それは前者を純文学作品という意味で使ったのです。
1989年に出た講談社版『日本語大辞典』は、純文学の意味を次のように解説しています。
「①言語を素材として、思想や情緒や美的感動を表現した想像力による作品。詩歌・戯曲・小説など。広い意味の文学(哲学・歴史などを含む)に対する語。②大衆的・通俗的でない文学」

おおかたの創作する人間は、ジャンルを意識しているものだと思います。声楽家を目指している人間が、歌謡教室ではなく音大の声楽科に行くように、純文学作品を書きたいと思う人間は他にも様々なジャンルの作品を読むことでしょうが、当然ながら純文学作品を沢山読み、その中で優れていると思った作家のものを手本にしようとするのが普通ではないでしょうか。もし村上春樹がデビュー作となった作品を娯楽作品だと考えたとしたら、群像新人文学賞ではなく、エンター系の賞に応募したことでしょう。

貴方の疑問は、沢山の文学作品を読んだことがないところから出てくる疑問だと思います。
まず、世界の文豪といわれているような作家の作品を沢山読んでごらんなさい。それが第一と思いますが、それ以外のもので、文学作品について深く考察しているオルハン・パムクのノーベル文学賞受賞講演を含む『父のトランク』(藤原書店)、レオン・サーメリアン『小説の技法』(旺史社)などもおすすめします。

投稿: マダムN | 2007年8月13日 (月) 04:41

 通りすがりのコメントをお許しください。私は村上春樹が嫌いではありませんし、『ノルウェイの森』も嫌いというわけではありません。しかしこの作品は読後、感動とか明るく前向きな再生を味わう気分より、ほとんど暗澹たる気分にしかならなかったというのが正直なところです。
 小説の読み方は人それぞれで、そこが小説の面白いところでもあります。マダムNさんの書かれた評を通して読むと、当たり前ではありますが、結局はマダムNさんの読み方(例えば、「これを直子の恋ごころの綾ととれないこともないが、もしそうだとすると、主人公の鈍感さは歯痒いばかりだ。」やフェラチオに拘っている点等々)に基づいて断じているわけで、村上春樹が何の賞を取るかについて含めて嫌味めいた物言いでなくてもよいのではないかと思いました。
 私がこの評を読んだのは、表題の「薄気味の悪さ」という言葉があったからでした。私もそれを感じていたのです。ただそのポイントは私とは違うように読みました。マダムNさんは直子を「精神性の勝った、繊細で、透明感のある女性」と書いています。私もそう思います。でも、私は同時に、直子という女性が不気味でしょうがないのです。もう半分死の世界に足を踏み入れているような、透明すぎて向こう側が透けて見えてしまいそうな、幽霊のような存在に見えるのです。性的接触にしてもひどく現実感がなく、主人公の妄想の記憶のようにすら感じるくらいです。
 直子にある種の感情移入をして読むのももちろん自由です。ただ私が思うのは、この話はどう考えてもいわゆる三角関係を描いた恋愛小説ではないということなのです。「恋する女性が最も精神的なつながりを求めているとき」とマダムNさんは書いていますが、私にはそう思えないのです。読み方が違うのですね。
 この話というのは結局、主人公「僕」の話でしかありません。誰の話でもありません。主人公が、誰の事でもない、「自分の事を思い出している」物語なのです。その意味では、マダムNさんの指摘も当たっているところがあると思います。この小説は私小説的とも見られ、村上春樹は実際の話なのかという質問をわざわざ否定しなければならなかったわけです。なんでそんな体裁をとったのだ馬鹿者、といっても詮無い。
 マダムNさんの嫌悪感は、男性全般に対する嫌悪感なのかもしれません。というのは、すべてではないにしろ、わりに多くの男が「僕」のような存在だからです。光源氏はどこにも存在しないのですね。

投稿: shester | 2008年2月10日 (日) 04:10

ご訪問並びに興味深いコメントをありがとうございました。

賞に関する嫌味な物言いについては、ご不快だったのだろうと拝察しますが、出版界では村上春樹氏の著書に関する否定的な批評、批判はタブーとなっているという情報を過去に得たことがあり、きちんと調査したわけでもないそのことを本文であからさまに書くわけにもいかず、わたしにとっては「皮肉な物言い」が妥当的な選択だったのです。

と申しますのも、まもなく50歳になろうとしているわたしが大学の頃までは、純文学作品に関する批評は文芸雑誌を賑わせているのが常でした。
現在ではそうではありません。勿論皆無というわけではありませんが。
わたしは、評論家が生き生きと物を書けるようであってこそ、健康的な社会だと思っています。商業主義などとも関係するこうした現象について、今ここで、考えをきちんと述べるゆとりはありませんが、当ブログのあちこちで、それに類することは書いてきました。

当記事に関する他の方々のコメントも読んでくださったのかどうかはわかりませんが、わたしには統合失調症患者で、もう亡くなった知人や、大学時代から現在に至るまで長いつきあいをしている友人がいます。
偶然かもしれませんが、その2人には、たまたまなのか、病気が関係しているのかはわかりませんが、この世の人とも思えない透明感を感じたことがあり、この点では村上春樹氏の芸術家としての感性や表現力に脱帽せざるをえません。
これは単に感じ方の違いなのかもしれませんが、あるいは貴方がまだそんな人物に出遇っておられないだけなのかもしれません。

わたしのある種の嫌悪感には根深いものがあり、それが男性という種全体に対するものと受け取られかねない表現があったのかもしれないと反省はしますが、決してそんなことはありません。
貴方がおいくつくらいの方なのか、男性なのか女性なのかは存じませんが、まあまあ、光源氏がどこにも存在しないなんて、そう早々と決めつけなくてもよいのではありませんか?

投稿: マダムN | 2008年2月10日 (日) 08:21

 お返事ありがとうございます。私は32年男をやっていますので、無論自分の経験の範囲とはいえ、光源氏のような人物が滅多にいないことを確信しております。
 私は統合失調症の方に個人的に会った事はありません。それを自称する女性には会った事はありますが、少なくともここで話に出ている「透明感」を彼女に感じる事はありませんでした。
 確かに、見方によっては主人公「僕」は言い訳をしているようにも取れます。しかし私には主人公を責める事ができないのです。私には、主人公が直子をうつつの世界に引き戻してやる事ができなかった無力と頼りなさをなじることができないのです。といって、緑とうまくいくかもしれなくてよかったね、という気分にもなれず、暗澹たる気分で読み終えるしかなかったのです。
 ある意味ではそれは、作者の思う壺だったのかもしれません。私は冒頭の主人公と同様、激しく混乱し、動揺するだけだったのです。
 マダムNさんは「わたしのある種の嫌悪感には根深いものがある」と書かれているので、一番大きいのはそこの問題と感じます。そのあるなしは読み方に大きな違いを生んでいるはずです。

投稿: shester | 2008年2月10日 (日) 19:12

再度のご訪問とコメントを、ありがとうございました。
さっきココログの管理画面を開いたところで、コメントの公開とお返事が遅くなり、申し訳ありません。
コメントを書いてくださるかたは限られているので、こうして意見の交換ができるのは楽しく、昔喫茶店で文芸部の仲間とおしゃべりしていた頃のことを思い出しました。

貴方は32年間男をやっておられるそうですが、わたしは生まれてからずっと女をやってはおりますが、そろそろ閉経を迎えようとしているので、女性ホルモンの分泌量も減って、動物としての雌雄という分類からいえば、貴方に1歩近づいたともいえます。
わたしは自身の中に男性要素、女性要素のどちらも存在することを感じてきましたし、人間であれば、誰しもそうなのではないかと思っています。ですから、男性には未知の部分があるとはいえ、全く理解できない存在ではありません。それに、母親として息子が胎児の頃から成人するまで宝物のように見守ってきた貴重な体験から、32年間男をやっておられた貴方以上に男性について熟知している部分もあるかと思います。

村上作品を読む場合の貴方との相違点に、わたしはあの作品を貴方ほど私的な切実さで読んではおらず、同じ物書き(勿論相手は売れっ子のプロで、わたしは卵の中で死にかけているアマチュアという大きな違いはありますが)として読んでいる部分が大きいということです。こんな言い方は大いに語弊があるでしょうが、村上春樹氏はわたしにはそのレベルの作家でしかありません。わたしのエッセーが《私》に惹きつけた書き方となっているのは技巧上のことでして、自身の体験も、話をわかりやすくするために、その線上で用いているにすぎません。

ですから、わたしはあの主人公を自身の恋人になぞらえて問題視したり、責めたり、なじったりだとかいうことは論外なのです。問題としているのは、作者の意識であり、物書きとしての姿勢なのです。
青年期の危うさ……ナイーヴ、情熱、覇気、爽やかさ、権力欲、性欲、臆病、エゴイズム等々……を美しく捉えた文学作品は数多く存在します。そうした作品は一様に大人としての(あるいは熟練した物書きとしての)成熟した意識で描かれており、作者は主人公と一体化しつつも、きちんと客観視ができています。この作品ではそれが欠如しているとわたしは考えています。
 主人公の偽善性を描くのは力量を要することで、それが成功している場合には読者の共感を誘うのみでなく、よい読後感を残すものです。作者が主人公を私的な観点からのみ描き、美化している厭らしさがあの作品にはあるとわたしは考えるのです。作中で主人公が自身を美化するのは自然ですが、作者が主人公を美化するのは物書きとしての意識に欠けた異常な事態で、『ノルウェイの森』にはそうした問題点があると考えます。そうした意味では、「作者の物語」という前の貴方のコメントとわたしは同意見で、が、読み方が異なるという貴方のお考え通りです。

わたしはまだ50年生きてきただけですが、知れば知るほど人間は多面的で(人間に限りませんが)、それゆえに魅力的な存在だと感じます。光源氏の魅力は、その多面性がよく捉えられているところにあるとわたしは思います。そのためには脇役もよく描きこまれていなければなりませんが、実際『源氏物語』では脇役の多面性もよく描きこまれていて、読者に納得のいく一個の人間像として提示されているのです。『ノルウェイの森』では、脇役は一面的な描き方で、貴方が直子を薄気味悪くお感じになるのもそのせいではないでしょうか。

光源氏に対して抱いているイメージも貴方とわたしでは違うのでしょう。恥ずかしながら、わたしは既婚者でこの年齢になっていながら、周囲のあちこちの男性に光源氏の片鱗を見い出し、淡い片恋を繰り返しております。全く救いようのないおばさんですが、わが夫にも日々抱く感情は様々で、よくも悪くも動的です。
貴方はまだ32歳という若さでしょう。これから、どんなすばらしい出会いがあるかは神のみぞ知るです。

投稿: マダムN | 2008年2月11日 (月) 17:52

 こちらこそお返事をいただいてありがとうございます。私とて『ノルウェイの森』でこんな談議をするとは思いませんでした。
 私が光源氏を持ち出したのは言うもでもなく、マダムNさんの文章に『宇治十帖』の薫に対する言及があったので対比して引用したものですので、あまり現実にいるかどうかの話でひきずってもと思っております。
 加えて、私ばかりでなくほかの方にもそうですが、精神病患者への接触の有無や性別(母であること含む)や年齢と、経験を持って正しさを保障しようというのは、言葉を操るものとしてどうなのでしょうか。まして母親という男には絶対なれないものを保障として持ち出すのですか? 村上春樹が厭らしいと言う以上にそれは厭らしいと思います。それを言うならば、私は貴女の知らない見たこともない女の顔をたくさん知っております。特に最近の若い人間の心情は貴女以上に分かっています。…と言い合っても詮無いでしょう。男女は理解はし合えるかもしれませんが、何年経っても分かりきれないところは残ると思います。私は(異性である)女が分かるなど一言も言っておりません。ただ薫のような男もまたいっぱいいるのだと書いたのです。しかしマダムNさんの発言は慎重さを欠いているように私には思えます。私には、男が分かっているなら「これを直子の恋ごころの綾ととれないこともないが、もしそうだとすると、主人公の鈍感さは歯痒いばかりだ。」等々の言葉がマダムNさんから出てくるとは思えないのです。
 いろいろの経験など抜きにして、マダムNさんは間違いなく一定の視点で読んでいます。私はそれを否定などしません。前にも書いているように、読み方が違うとしか言いようがないのです。でもそこで、これこれの経験から自分のほうが包括的読み方であると主張されてもどうにもしようがない。実際は、マダムNさんは一般の(おそらく特に男性)読者より主人公を相当な遠目で見ています。一方で直子には近づいています。別にそういう読み方が「正しい」というわけではないはずです。さらに言えば、直子からも離れ「客観的視点」で読むことが唯一正しいとも言えません。
 前置きが長くなってしまいました。
 「作者が主人公を私的な観点からのみ描き、美化している厭らしさがあの作品にはあるとわたしは考えるのです。」と書かれていますが、それは私も同意です。私にはマダムNさんの評全体が作者の態度のみを問題にしているとは思えないのですが、その視点は共有していると思います。
 ただここでも論争は出てくるかもしれません。「純文学って何さ?」という質問とも関係してくると思います。作者の態度なんてどうでもいいよ、という立場だってあるわけですから。私は作者の態度を軽視はしませんが、しかしそれに足を取られすぎて、昔ながらの作家の態度こき下ろし大会になっても実がないと感じます。もしかしたら、内ゲバ的なそういった無駄なエナジーが文学を駄目にしたのかもしれません。(いや活力を与えていたのだ!という意見もあるかもしれない。実際のところは私には分からない)
 『ノルウェイの森』が人類史に残る傑作とは言いませんが、ここで話に出た主人公の態度、そしてまた作者の態度、それぞれを、私は結局許しているのでしょう。こういう小説の書き方があってもいいと思いますし、また一番の理由は、私自身がいやらしい人間であるからに違いありません。
 私は直子が不気味にも感じると書きました。そしてその理由はマダムNさんが指摘されている点もあると思います。が、それは私にはマイナス要素ではないのです。これは主人公の一方的記憶として書かれており、脇役の描写が一面的である事はとりたてて不自然ではありません。それにもし、主人公が直子に入り込み、より「人間的に」思い出すようなら、主人公は最後に自殺していたかもしれないと思います。主人公は自分を守る必要があったと感じます。だから、「あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置く」必要があったのではないか。私は主人公が冷淡と断じる事ができませんし、そんな主人公を読み方によっては擁護・美化しているように見える作者の書きようも責める事ができないのです。

投稿: shester | 2008年2月12日 (火) 01:31

ご訪問とコメントを、ありがとうございました。

互いに少しずれのあるわたしたちの討論ですが、このような討論が文芸誌などでもっとなされていいとわたしは思っています。
感じ方、考え方の異なる評者たちの討論が文芸誌で活発になされるということは、様々なタイプの作品が文芸誌を賑わすということでもありますから。

今回の貴方のご意見の中で、よくわからなかったところは、
――私には、男が分っているなら「これを直子の恋ごころの綾ととれないこともないが、もしそうだとすると、主人公の鈍感さは歯痒いばかりだ。」等々の言葉がマダムNさんから出てくるとは思えないのです。――
という箇所です。

わたしはここでは男をわかったつもりで書いているわけではなく、直子の側に立って書いたつもりでした。
この小説が僕の語りとして書かれているので、僕でない側の心情に立ってみたわけです。

さらにいえば、ここでわたしは直子というより、直子の仮の友人や母親の側に立ってみたといったほうがより正確かもしれません。
わたしが自殺した直子のような友人を持ち、しかも直前にこのようなことがあったことを知ったとしたら、間違いなくわたしはこのような男を非難したくなるでしょうし、殺したいとすら思うかもしれません。
そんな傍観者としての一女ごころといったほうが、より正確かもしれません。
友人に統合失調症の女性がいるために、ついそんな視点で読んでしまうところはあるかもしれませんが、それを保障としているわけではありませんよ。
そんな視点があることも、わかっていただければと思います。

貴方がもし直子の兄の立場だとしたら、あるいは直子その人であったとしたら、如何ですか?
このあとで直子は自殺しますが、貴方が自殺する前の直子のような立場だとしたらです。

想像しにくければ、主人公が女と考えてみてください。貴方は直人か何かという名の直子の立場の男性です。
貴方は精神的な疾患を持ち、本来の自分ではありません。自分がこの先どうなるのか、闇が拡がってるような心境ですが、自分のことを気遣ってくれる女性がいて、その女性の気持ちに報いるために、自殺するほど追い詰められていく中で、その女性を、自分は不能でありながらもハイな心地に導いてやったあと死に赴きます。
そしてその女性は生き残って、あの男のあのときの手つきはよかったなんて、回想したりするのですね。

悲劇的というより、わたしは何だか滑稽な気がしますが、どうでしょう。
『ノルウェイの森』を滑稽と感じるのはわたしだけでしょうか。

わたしはこの作品を特に男ごころをわかろうとして読みはしませんでした。これまでの読書歴で、自然にそんな気持ちにさせられた作品は沢山ありましたが、この作品はそんな気持ちにさせてくれませんでした。
この主人公のような男にはひっかかりたくないなあ、というのが、わたしの私的な感想です。

わたしのエッセーをお読みくださった方々のうち、とくに村上ファンの方々の神経を逆なでしてきたところはあるだろうと思っています。
ただ、コメント以外に、このエッセーに共感したというメールも女性の方々からですが、複数いただいています。
勿論わたしのエッセーにカチンとこられた女性の方だっていらっしゃるでしょうし、男性のなかにもいろいろだろうと想像しています。

わたしはこれまで賞に応募してきて、よく落とされました。
そして男性の審査員であってもわたしの作品に共感してくれる審査員、否定的な審査員といろいろなのです。
落選は痛かったのですが、男性の感じ方、考え方にもいろいろあるのだと思わされて、それは勉強になりました。
貴方のコメントも、貴重な一資料となるでしょう。

このエッセーをアップして以来毎日多くの方々がアクセスしてくださり、不気味なほどですが、今は削除しなくてよかったと思っています(削除を考えた時期もあったのです)。
何だか、ずれたお返事でごめんなさい。所詮は一素人の稚拙なエッセーにすぎないものに、真摯なコメントをありがとうshine

投稿: マダムN | 2008年2月12日 (火) 08:48

 男と女は同じ人間ではありますが、性質が異なるところもあるのは認めざるを得ません。主人公と直子をひっくり返す作業自体が意味があるのか私には分かりません。
 主人公と直子をひっくり返す作業にあえて乗るとして、ほかの男性がどう答えるかアンケートをとるわけにもいきませんが、死んだ後で「あの男の愛撫はよかった」と女が思い出してくれるならまだ良いわい、という男性も少なくないような気がします。私自身想像しても怒りも思慕も何も感じません。(男は、ふりかかった問題は「自分の問題でしかない」と考えるもので、まして「今あなたにこうこうこうして欲しいのに!」と女に向けて思うことはほとんどないと思います。女にはそれがよりあるとすれば、やっぱりこれはひっくり返らないのです)
 私には、直子が自分にその気はないのに性的接触をするのは、「私を覚えていて欲しいから」一点だと感じます。そういうことをすれば男は思い出すことを彼女はよく知っているのです。
 緑という女性も出てくるのですから、緑の仮の友人になってもいいように思いますが、そこはやっぱり完全な傍観者ではなく、直子に近づいた視点であるからだと思います。そしてその視点で主人公に文句を言いたくなる事もあるのかもしれません。そこはこれまで書いているように尊重します。そしてその上で、これで怒るとこの世のほとんどの男に憤慨する事になりますね、というのが光源氏と薫の引用であったわけです。
 「所詮は一素人の稚拙なエッセー」とありますが、そんなことはありません。共感された女性もいたというように、これも一つの意見です。私も、ものは一期一会だと思うので、小事と思わず真面目に書きました。マダムNさんの小説が店頭に並ぶ日を楽しみにしております。

投稿: shester | 2008年2月13日 (水) 21:01

これまでの討論から話は飛びますが、わたしは直子のような自殺者はこの世界から出したくないと思わずにいられませんでした。
それがこのエッセーを書いた動機でした。

貴方は直子の気持ちを自信をもって代弁してくださっていますが、わたしが直子でないと、貴方にどうしてわかりましょう?

でも、創作にエールを送ってくださって、ありがとう。
お約束しましたよ。わたしの本が出たら、買ってくださいね。
これに懲りずに、たまにはブログやホームページをのぞいてくださればと思います。
それでは、これで。

投稿: マダムN | 2008年2月14日 (木) 03:28

この記事に関しましては、意見も出揃ったと判断し、迷惑コメント対策も兼ねて、
2008年9月24日午後6時をもちまして、コメントの受付は停止とさせていただきました。ご了承くださいませ。
これまでに真摯なご感想をお寄せいただいた方々には、
心から御礼を申し上げます。

管理人 マダムN

投稿: マダムN | 2008年9月24日 (水) 18:28

ノルウェイの森の分析、とても興味深く拝読しました。
村上作品は幾つか読んでいますが、せいぜいそこそこ面白いSF小説という印象しかなく、海辺のカフカに至っては支離滅裂のSF小説だと思い、このどこがいいのだろうと感じていました。
マダムNさんは本稿で、極めて理知的、解析的にノルウェイの森の問題点を抉り出しており、「なるほど、その通り!」と、快哉を叫びました。一層のご健筆をお祈りします。

投稿: 武田M | 2012年7月 8日 (日) 11:58

久しぶりにいただいたコメントを例外的に受付けたところ、
コメントの受付を再開したとの誤解を与えたようです。
コメントは拝読しますが、
今後も以下の方針に変わりはありませんので、
よろしくお願い致します。

「この記事に関しましては、意見も出揃ったと判断し、迷惑コメント対策も兼ねて、
2008年9月24日午後6時をもちまして、
コメントの受付は停止とさせていただきました。
ご了承くださいませ。
これまでに真摯なご感想をお寄せいただいた方々には、
心から御礼を申し上げます。」

推薦書などございましたら、
サイドバーからゲストブックをご利用ください。

管理人 マダムN

投稿: 管理人 マダムN | 2012年7月19日 (木) 16:30

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