ご訪問、ありがとうございます

当記事は、ブログのトップページの最初に表示されます。

ご訪問、ありがとうございます。
当ブログ「マダムNの覚書」は管理人マダムNの基幹ブログです。
他に、神秘主義的なエッセーを集めた「マダムNの神秘主義的エッセー」などがあります。
管理人は、2013年から、AmazonのKindleストアで電子書籍を出版しています。
筆名、直塚万季でご検索ください。ジャンルは純文学、児童文学、評論、エッセーなど。
Amazon.co.jp 著者ページ

サイドバーからピックアップしてみました。
旬の記事(充実してきた保守系インターネットテレビ番組)
トピックス(前世療法は、ブラヴァツキーが危険性を警告した降霊術にすぎない)
旬のレシピ(旬の枝豆。ウェイパーと創味シャンタン)
人気レシピ(土井善晴先生「春雨とハムのマヨネーズあえ」…)
最多アクセス記事(村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ)
カテゴリー

プロフィール

★当サイトで紹介した作家、思想家一覧 (2017年5月24日更新、2013年1月28日まで掲載済)

ライン以下に、バックナンバーへのリンクがあります(最古記事及び1月の記事のみ)。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

» 続きを読む

|

2019年10月15日 (火)

軌道修正したらしいノーベル文学賞。2018年オルガ・トカルテュク(ポーランド)、2019年ペーター・ハントケ(オーストリア)。

2016年、ノーベル文学賞はシンガーソングライターのボブ・ディラン(アメリカ合衆国)が受賞した。翌2017年もノーベル文学賞は迷走を続けて、純粋な芸術性を目的として創作される純文学の作家ではなく、一般大衆を対象とした娯楽的要素の強い大衆文学の作家として人気の高いカズオ・イシグロ(イギリス)が受賞した。

何しろ、従来とは異なるジャンルへの授与が2年続いたのだから、個々の作品に対する評価は別として、これまでのノーベル文学賞とはいえなかった。

そして、昨年2018年はノーベル文学賞の選考機関スウェーデン・アカデミーに問題が起き、選考・発表が見送られた。もうノーベル文学賞は終わった……とわたしは思い、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で以下のエッセーを公開した。

64 2016年に実質的終焉を告げたノーベル文学賞
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/10/16/191359

75 ノーベル文学賞の変節、及び古代アレクサンドリアにおけるミューズ
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/10/08/150033

だから、今年のノーベル文学賞の発表のことはすっかり忘れていて、ツイッターでそのニュースが流れてきたとき、もうその時期なのかとびっくりした。

2018年 オルガ・トカルテュク(ポーランド)
2019年 ペーター・ハントケ(オーストリア)

以上のような結果だった。

ペーター・ハントケという名には記憶があった。

ペーター・ハントケ(Peter Handke, 1942年12月6日 - )はオーストリア出身の現代作家。小説、戯曲、詩から放送劇、フランス文学の翻訳まで幅広く活動。現在フランスのシャヴィーユ在住。(……)
孤児が言葉を知ることによって社会にとらわれていく様を幾つもの断章を用いて描いた戯曲『カスパー』(1967年)や、殺人者が次第に言葉や社会とのつながりを失っていく小説『ペナルティキックを受けるゴールキーパーの不安』(1970年)など、当初は社会に溶け込めない個人を主題とした実験的なものが多かったが、70年代から80年代から次第に肯定的、総合的な作風へ移行して行き、前年の母親の自殺を扱った『幸せではないが、もういい』(1972年)や、『ゆるやかな帰郷』(1979年)、母方の祖父の故郷スロヴェニアを旅する『反復』(1986年)といった自伝的な作品も手がけるようになった。またヴィム・ヴェンダースと組んでの映画製作が知られており、自作が原作の『ゴールキーパーの不安』(映画は1971年)『まわり道』(同1974年)や『ベルリン・天使の詩』で脚本を書いている。
「ペーター・ハントケ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月10日 14:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

映画『ベルリン・天使の詩』で脚本を手がけた人物だという。わたしは観ていないが、映画雑誌「スクリーン」だったか、「ロードショー」だったかで掲載されていたのを覚えている。

オルガ・トカルチュク(ポーランド語: Olga Nawoja Tokarczuk[ɔlga tɔˈkart͡ʂuk] , 1962年1月29日 - )はポーランドの小説家、エッセイスト。スレフフ出身。
ワルシャワ大学で心理学を専攻。1993年にデビュー。文学専門の出版社「ruta」を設立し、2003年以降は執筆に専念する。2008年にポーランド文学最高峰のニケ賞を受賞し、現代ポーランドを代表する作家として注目されるようになった。『逃亡派』で2018年ブッカー国際賞受賞。
「オルガ・トカルチュク」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月10日 14:48 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

オルガ・トカルチュクの作品も未読だった。行きつけの図書館にあったのは、オルガ・トカルチュクは次の2冊。

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)
オルガ トカルチュク (著), 小椋 彩 (翻訳)
出版社: 白水社 (2010/10/19)

逃亡派 (EXLIBRIS)
オルガ トカルチュク (著), 小椋 彩 (翻訳)
出版社: 白水社 (2014/2/25)

ペーター・ハントケは次の4冊。

左ききの女 (新しいドイツの文学シリーズ)
ペーター ハントケ (著), 池田 香代子 (翻訳)
出版社: 同学社 (1989/11/1)

反復
ペーター・ハントケ (著), 阿部 卓也 (翻訳)
出版社: 同学社 (1995/1/1)

空爆下のユーゴスラビアで―涙の下から問いかける (『新しいドイツの文学』シリーズ)
ペーター ハントケ (著), Peter Handke (原著), 元吉 瑞枝 (翻訳)
出版社: 同学社 (2001/07)

ドン・フアン(本人が語る)
ペーター ハントケ (著), 阿部 卓也 (翻訳), 宗宮 朋子 (翻訳)
出版社: 三修社 (2011/10/21)

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

オルガ・トカルチュクの『昼の家、夜の家』について、訳者あとがきには「本書を構成する111の挿話は、主人公の日常生活、日記、伝説、聖人伝、料理のレシピ、隣人のうわさ話など、それぞれが独立したものでありながら、互いがゆるやかに連関している」(小椋彩、P.378)と解説されている。

独立したものをなぜバラバラの断章にして、連載形式にするのかわからない。例えば、パトハリス修道士の物語はまとまって読むほうがわかりやすいだろうに、キノコのレシピや日記などの間に挟む。わたしには必然性が感じられず、思わせぶりなだけに思えた。

出典も、わざとわからなくしているのだとしか思えない。

引用箇所や参考文献がどことわかるように明記してあれば、作者の改変や潤色がどの程度加わっているのか、いないのか、その引用や参考の仕方が適切なのかどうかを調べることができるのだが、それができず、わが国で流行っているパクリと見分けのつかない、フランス語で誤魔化した「オマージュ」という怪しい手法を連想して苛立ってしまう。

というのも、カリール・ジブラーンの詩は、トカルチュクの小説の扉に置かれているときと、ジブラーンの詩の中に置かれているときとでは「家」が別物としか思えないからだ。異なる観点から「家」というモチーフが使われ、「家」は異なる意味合いを持っているということである。

また、例えば、『逃亡派』に出てくる「ショパンの心臓」の話は実話だが、作者の内臓趣味とショパンの心臓の話は全く意味合いの異なるもので、この作品の中に目玉商品のように置かれるのは、わたしの感覚からすれば、ショパンに対する冒涜でしかない。

トカルチュクは自然科学的というよりは即物的で、宗教的、神秘主義的というよりはごたまぜのスピリチュアル的な作家なのだ。

わたしがトカルチュクの作品に神経質になってしまうのは、ジェイムズ・ジョイスの恣意的な手法を連想してしまうからで、その手法に対する不審感を拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で書いた。

96 ジェイムズ・ジョイス (1)『ユリシーズ』に描かれた、ブラヴァツキー夫人を含む神智学関係者5名
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/06/02/004130

97 ジェイムズ・ジョイス (2)評伝にみるジョイスのキリスト教色、また作品の問題点 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/06/18/200850

オルガ・トカルチュクの作品を読み込んでいる時間的ゆとりがないので、ジョイスの手法に似て見えるという点だけ、指摘しておきたい。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

ぺーター・ハントケの作品は、池田香代子訳で、『左ききの女』(同学社、1989)のみ読んだ。読み始めると先が気になって、一気読みした。

絶対音感という音楽用語があるけれど、これは絶対情感の世界とでもいうべきか、よくも悪くも夾雑物が一切ないクリアな世界である。邦訳文はそれを的確に感じとらせてくれ、読みやすい。孤独がテーマなのだろう。

※以下、ネタバレあり。これからハントケの小説をお読みになるかたは、ここまでになさってくださいますように。

女主人公マリアンネには子供が一人いて、彼女は夫ブルーノに別居したい旨を告げる。

小説だが、映像的で、ほぼ会話と描写から成立しており、ハントケが脚本家でもあるという肩書きはなるほどと思わせられる。

女主人公の孤独だけでなく、登場人物全員の孤独が捉えられている。

別居した夫が、腹立ちまぎれにマリアンネにいう。

君はどんどん年をとっていく。たいしたことじゃないわ、とかなんとかいいながら。そしてある日首を吊るんだ。墓に入っても、君の生きざまにお似合いの下品な臭いをぷんぷんさせる。その日まで、君はどうやって過ごすんだ? おおかた、ぼけっと坐りこんで爪でも噛んでるのが落ちだ。そうだろ?(ハントケ,池田訳,1989,pp.82-83)

ハントケの母親は1971年に自殺しており、このことを題材としたという『幸せではないが、もういい』が出たのは、翌1972年のことだった。『左ききの女』が出たのは1976年である。

女性の孤独を濃密に扱ったこの作品にも、母親のことが投影されているのではないだろうか。図書館にペーター・ハントケ(元吉瑞枝訳)『幸せではないが、もういい』(同学社、2002)がなくて残念だ。

作者の視点は小説に登場する子供の視点と重なりながらマリアンネを観察し分析し、彼女の輪郭を顕微鏡にかけるかのように外側から克明に描写する。

マリアンネがおかしくなりそうなクライマックスで、彼女の父親が登場し、よい味を出す。父親は往年の流行作家で、今は雑文書きとなっている。この父親に娘のマリアンネは似ており、彼は娘の指標となりうる人物なのだ。

父親の登場で、マリアンネは救われたといっていいだろう。

作者ハントケは無力な子供シュテファンとしてマリアンネを見つめる一方では、滋味に溢れた物書きの父親となって、マリアンネを見つめる。

息詰まるようなストーリー展開であるにも拘わらず、途中で読むのが嫌にならないのは、作者の真摯さ、誠実さ、人間的な温かさが読者にも伝わってくるからだろう。

マリアンネが父親に再会して再生のきっかけを掴むように、読者も作者から言葉にできない何か確かなものを受けとる。

それは孤独を課題として引き受けて身じろぎもしない、作者の誠実な創作姿勢及び、不撓不屈の精神性であるかもしれない。

父親と別れたマリアンネは、息子と山登りをする。風景描写が美しい。

下の方では煤に点々と汚れていた積雪もこのあたりでは純白だった。犬の足跡に代わって鹿の足跡があった。
 二人は下生えをかきわけて登って行った。いたるところ鳥の声に満ちていた。雪解け水が小さな流れを作って音たてていた。樫の幹からか細い枝が生え、干涸らびた葉が数枚そよいでいた。白樺の幹には白い樹皮が縞模様をなして垂れ下がり、震えていた。
 二人は木立が疎らになったところを行き過ぎた。空き地の縁には鹿が群れていた。それほど深くもない雪からは枯れ草の先がのぞき、草になびいていた。(ハントケ,池田訳,1989,pp.119-120)  

頂上で、焼いたじゃがいもを食べ、魔法瓶の熱いコーヒーを飲みながら母子は思い出を語り、ふとマリアンネはイエス・キリストの十字架への道行きのいろんな留[りゅう]のシーンを描いた絵の話をする。その話が印象的だ。

『イエス、十字架より下ろさる』はほとんど真っ黒で、その次の最後の留、イエスがお墓に葬られるシーンはまた真っ白なの。そこからがおかしな話なんだけど、お母さんはゆっくりと絵の前を歩いていたのね。その最後の真っ白の絵の前に立ったとき、突然、白い絵と重なってほとんど真っ黒のさっきの絵が、数秒間残像になって見えた。それから真っ白な絵が見えた。(ハントケ,池田訳,1989,pp.123)

その後、父親を除く大人の登場人物がマリアンネに誘われて集合し、ホームパーティーとなる。夫ブルーノ、マリアンネの友達で教師をしているフランツィスカ、マリアンネがブルーノのセーターを買ったブティックの女性店員、マリアンネを翻訳者として雇っている社長とその運転手、マリアンネに言い寄る俳優――といった人々である。

各人が自分の孤独を身の内に宿したまま大団円を迎え、パーティーは御開きとなる。

これは未だ初期の作品で、後半部は幾分緊張感が緩み、結末を急ぎすぎた感もあるが、純文学作品らしい手応えのある作品である。

ひとまず、ノーベル文学賞が軌道修正したことに万歳といいたい。おめでとうございます、ペーター・ハントケ。疑問点はあるけれど、おめでとうございます、オルガ・トカルチュク。

| | コメント (0)

2019年10月13日 (日)

東京を水没から救った二大守護神、首都圏外郭放水路と八ッ場ダム

台風19号の記録的な豪雨により、各地で、甚大な被害が起きました。わたしは息子の住む東京都の安全がどうしても心配でしたが、危惧したよりは首都圏の被害が少なく済んだようで、ホッとしながらも不思議でした。

前掲のツイートを閲覧して、疑問が解けました。

10月1日に試験湛水が開始された八ッ場ダムが台風19号の大雨による利根川の氾濫を食い止め、首都圏外郭放水路(公式愛称「彩龍の川」、「地下神殿」とも呼ばれる)が首都圏の洪水被害を大幅に軽減。鎮座まします二大守護神が東京を水没から救ってくれたというわけですね。

「彩龍の川」も「地下神殿」も、何て素敵な呼び名なんでしょう!

八ッ場ダムは、耳にした覚えがありました。民主党政権時代に国会で叩かれていましたっけね。

八ッ場(やんば)ダムは1967年に事業着手された、群馬県長野原町、利根川水系吾妻川に建設中の多目的重力式コンクリートダムで、2020年完成予定となっているようです。

2009年8月30日に投開票が行われた第45回衆議院議員総選挙では、マニフェストで「川辺川ダム、八ツ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す。」と掲げた民主党が308議席を得て衆議院第一党となったことを受け、国土交通省の事務次官谷口博昭は、9月3日午前に入札を延期するよう発注者である関東地方整備局長に対して指示、ダム本体工事の入札は新政権の大臣の判断・指示を待つ意向を明らかにした。9月16日、鳩山由紀夫内閣が正式に発足、国土交通大臣に就任した前原誠司は、認証式後の就任会見において八ッ場ダムの事業中止を明言し、鳩山由紀夫も翌17日の記者会見でこれを支持した。(……)
「八ッ場ダム」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月13日 07:20 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

このように、民主党政権下で、一時工事が中断されました。

八ッ場ダムにとってはぶっつけ本番となったわけですが、見事に大役を果たしてくれましたね。

2019年10月1日、試験湛水が開始された。
令和元年(2019年)10月7月(月)午前10時時点の試験湛水状況(速報値)
貯水位(標高):503.5m
貯水率:0.0%
試験湛水により2~3か月かけて満水にする予定だったが、2019年10月12日に上陸した令和元年台風第19号の大雨により水位が急上昇した。国土交通省関東地方整備局の速報によると、13日午前5時時点の水位は標高573.2メートルとなり、満水時の水位(標高583メートル)まで約10メートルに迫った。
利根川下流の栗橋観測所では、13日未明に決壊の恐れがあるとして久喜市、加須市などに避難勧告が発令されるなど緊迫した状況が続いたが、決壊には至らなかった。
「八ッ場ダム」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月13日 07:20 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

危ないところではあったようです。八ッ場ダムがなかったらと思うと、ゾッとします。

民主党政権下で要らないもの扱いされていた、スーパー堤防のことも思い出しました。

1987年(昭和62年) - 建設省(現国土交通省)が事業開始。
2010年(平成22年)10月28日 - 民主党政権の事業仕分け第3弾でスーパー堤防事業は廃止と評価判定された。
2011年(平成23年)8月11日 - 「高規格堤防の見直しに関する検討会」において東北地方太平洋沖地震をふまえ、施設の整備水準を上回る外力は発生しうるとしても人命を守ることを第一に対応することの重要性を改めて認識した。
2012年(平成24年)1月19日 - 国土交通省は区間873kmのうち50.6kmの5.8%が整備完了としたが、会計検査院は不完全区間があり完成区間は1.1%と指摘。また、2010年10月の事業仕分けで廃止と判定されたが、2011年東北地方太平洋沖地震をふまえ、「人命にかかわる」として約120kmは整備継続の方針。
「高規格堤防」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年5月26日 13:09 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

規模は120kmに縮小されながらも、建設は行われているようです。

何か起きるたびに、わたしは民主党政権時代の悪夢のような「事業仕分け」を思い出す癖がついてしまいました。わたしには彼らが日本沈没を企んでいたとしか思えません。単に無知だった可能性もありますが……

まだ救出を待っている方々がおられるようです。一刻も早く、救出されますように。

| | コメント (0)

2019年10月12日 (土)

暴風に備えて、窓に養生テープを

台風19号、「13日にかけて予想される最大瞬間風速は、東海地方、関東甲信地方60メートル」とか。

息子、親戚、友人が東京方面にいるので、心配です。

大分県日田市で台風被害に遭ったとき、最大瞬間風速50・2メートルでした。それより大きい……

50メートルでさえ、外へ出るなどできないレベルです。まず、ドアが開きません。電信柱が倒れ、何が飛んでくるかわかりません。

九州では、暴風雨のときにドアに指を挟まれて大怪我をしたという話をよく聞きますので、どうしてもドアを開けなければならないようなときはくれぐれもご注意を。

窓が割れたという話もよく聞くところです。養生テープ、カーテンをして、窓から遠ざかるのがいいようです。持っていれば、ヘルメットをかぶったほうがいいと思います。

窓が飛ぶレベルだと、養生テープも無意味かもしれませんが、割れたときにガラスが飛び散ることを防ぐことはできるそうです。

何とか軌道修正したらしいノーベル文学賞のこと、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」に「被曝最高!」と若者らが叫ぶ原発事故を嘲った映像作品があったそうで炎上しており、この二つに関する記事を書いているところでしたが、台風の事が気になり、当記事となりました。

| | コメント (0)

2019年10月 8日 (火)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その15。10月8日午後再開。河村市長の座り込み抗議、赤に白一点のフォーラム。田中保善『泣き虫軍医物語』。

物議を醸し続けている「あいちトリエンナーレ 2019」の企画展「表現の不自由展・その後」ですが、本日――10月8日午後、再開の予定だそうです。

これに異を唱えてきた名古屋市の河村たかし市長が、その再開に合わせて、抗議の座り込みをなさるそうです。また、河村市長は7日、18日が支払い期限の市が負担する開催費用の一部約3380万円について、支払い留保の考えを記者団に明らかにしました。

入場者には教育プログラムを受けさせるのだそうです。このやりかたは石平氏がおっしゃる通り、共産党の洗脳を連想させます。

 

「ひろしまトリエンナーレ2020」のプレイベントにあたる企画展が10月5日、広島県尾道市の離島、百島で始まったそうで、これも大同小異のひどいものであるようです。わたしも、西村氏のご意見に同感です。

あいちトリエンナーレのあり方検討委員会とあいちトリエンナーレ実行委員会が主催する国際フォーラム「『情の時代』における表現の自由と芸術」の第1日「表現の自由と芸術、社会」が2019年10月5日(土)13時から17時まで、愛知芸術文化センターで開かれました。

それを記録した動画の中で、「国家や一部の人々を傷つけたり驚かせたり混乱させるものも表現の自由として保証される」などという、司会者のとんでもない発言がありました。日本国憲法第12条に真っ向から挑戦する発言であり、これはもはや芸術とは無関係なテロリストの発想です。 

第一二条[自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任]この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

フォーラムの最後で良識的な発言がありました。それを司会者が潰した格好でフォーラムは終了し、芸術監督・津田大介氏がオマケの大あくびをしました。

日本人が大東亜戦争と呼び、終戦後、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、太平洋戦争などと呼ばれるようになった先の戦争を、左翼がプロパガンダに絶賛活用中です。

彼らの脳内では、その戦争において、大日本帝国軍人は天皇陛下の命により、植民地戦争を繰り広げて残虐行為を行ったということになっています。そして、これら軍人の性の相手を朝鮮人の従軍慰安婦がさせられ、ひどい扱いを受けたということにもなっています。

「表現の不自由展・その後」の展示作品も、この二点に依拠したものです。この二点が覆ってもなお芸術作品として何か優れたものが残る作品が一点でもあるのでしょうか。

そもそも、どなたの御写真であろうが、それを焼いたり踏みつけたりする行為、また死者を冒涜する行為は、日本人の感性には到底馴染まないものです。日本人は古来、礼節を尊ぶ国民性です。

祐徳稲荷神社の創健社、花山院萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっている田中保善氏の御著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、昭和55年)が届きました。

戦争末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録です。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品でした。中表紙に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出しました。

小学校だったか中学校だったかは忘れましたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔です。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではありませんが……

プロフィールから引用します。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応招。同21年4月復員…

まだ読んでいる途中なので、記事を改めてレビューを書きたいと思っています。

ちょっとだけ書いておくと、従軍慰安婦は出てきませんが、慰安婦(公娼)は結構出てきます。日本の娘だけでなく、「朝鮮や台湾の娘もおり、時にはジャワ島から来たジャワ娘もいた」(73頁)とあります。連れてこられたではなく、「来た」とありますよ。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の御著書が上梓されたのはそれを遡ること13年、昭和55年(1980)です。率直でユーモラスな筆致が特徴的なこの体験記には、様々なことが赤裸々に書かれています。

慰安婦達との恋愛遊戯のようなこともよくあったようで、田中氏は千代龍という美女に一目惚れ。こんなことを書いて、奥様に叱られなかったでしょうか。千代龍というのは源氏名でしょう。

日本軍がクダット地区を撤退するとき、酋長は部下幹部と共に涙を流して悲しみ、次のように言ったと書かれています。

クダットを撤退するのは思いとどまって下さい。他の新鋭部隊でなく今のあなた達でよい。日本軍がいなくなって、またもし白人が来たら、我々はまた人間扱いはされない。日本軍は私達を同等に扱ってくれた。我々と同じ物を食べ、一緒に同席してくれた。また赤十字をつけた兵隊さんからは我々の仲間が病気を治療してもらって沢山助けられている。どうか日本軍の皆さん、クダットに残っては下さらないでしょうか。日本軍の代わりに白人が来たら、我々はまた奴隷にされてしまいます。(131~132頁)

田中氏のこの御著書だけでも、左翼がしがみついている前掲二点を覆すことができます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」といいますけれど、勝った側って、本当に嘘つきですね。

| | コメント (0)

2019年10月 5日 (土)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その14。再開の動きのある中で浮上した、補助金詐欺疑惑。

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった企画展「表現の不自由展・その後」ですが、以下の愛知県議会議議員のツイートが示す、不透明な状況下で、再開の動きが出ています。

再開する時期は10月6~8日の方向だということですが、ここへきて、補助金詐欺疑惑が出てきました。

明日は6日ですが、本当に再開されるのでしょうか。メディアはおそらく補助金詐欺疑惑に関してはおおむねスルーでしょう。出版界の現状を伝える以下の貴重なツイート。

あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」では、慰安婦像はじめ、昭和天皇、特攻隊を貶める作品が展示されていました。それを再び日本人の目に晒すつもりなのでしょうか。

ここまでするのであれば、日本人が大東亜戦争と呼び、戦後、GHQによって戦時用語として使用が禁止され、太平洋戦争などと呼ぶようになった戦争について、公平に検証すべきです。

否、既に検証は充分なされたといっていい段階にきているのですから、メディアがそれを海外にまで拡散してくれればいいだけの話なのです。反日に染まりきっていて、彼らはそれをしようとはしません。

「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった大東亜戦争が、アジアの植民地の宗主国を中心に構成された連合国側にとっては都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。
「大東亜戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月16日 04:16 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

戦争をするに当たっての日本のこうした理念と構想は、開戦の詔勅に簡潔に書かれています。開戦の詔勅、終戦の詔勅の内容を日本人は学校で教わることがありません。

前の記事で書いたように、萬子媛のイメージ像をモデルとした新作能を書いている途中ですが、戦時中、萬子媛に度重なる危機を助けられたとお書きになっている田中保善氏が軍医として行かれたというボルネオについて調べていました。

コタブルトのアバラ屋と書かれている箇所を読むと、ジャングルの中なのだろうかと思い、これは凄惨なボルネオの戦いというイメージにぴったりくるものでした。ですが、クダット県知事公舎、大きな医務室などと書かれていると、整備された地域もあるのだろうと思いました。それは、植民政策を行っていたオランダかイギリスが整備したものを日本軍が占領したのだろうかと思い……当時の状況が全くわからなくなりました。

連合軍の攻撃で悲惨になる前のボルネオの状況を知りたいと思いました。今でもジャングルで有名なボルネオは、ボルネオの戦いで悲惨になる前から悲惨なところだったのでしょうか。

今のボルネオは親日だそうで、特にブルネイがそうだと知り、ウィキペディアを閲覧しました。

第二次世界大戦が始まり、この地を支配していたイギリスを日本軍が排除した結果、1942年より日本の戦時統治が始まり、ブルネイ県が設置される。
木村強がブルネイ県知事として着任した。
木村強は約1年間ブルネイ県知事を勤めて最初に軍部の反対を抑えて、多くのインフラ設備と公共設備投資をして、後のブルネイの経済発展をさせた。後に首狩り族とブルネイで恐れられ、日本軍に抵抗し戦い、その日本軍の兵士も捕まえて首を切ったとされているイバン族を必死に説得して協力させ、ブルネイの発展に作業させた。ブルネイ国王のアマド・タジュディンはイバン族を全滅させようとしたが、木村強は何とかしてイバン族の命を救った。そして1年のブルネイ県知事を終えた。
「ブルネイの歴史」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月29日 01:28 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

石油がほしいというだけでは、首狩り族を保護するようなことまではしないでしょう。以下のブログには、詳しいことが書かれています。植民地として利用されるだけで貧しかったボルネイを日本は人道的なやりかたで、豊かなところに変えていきました。日本人がブルネイの人々と一緒に平和な、豊かな場所に変えていったところへ、連合軍が攻撃をしかけてそれを滅茶苦茶にしたというわけです。

「【親日感動秘話】ブルネイを救った伝説の日本人」『にゃんころりんのらくがき』。2016年06月06日 13:47 UTC、URL: https://ameblo.jp/ba7-777/entry-12167914277.html

そういえば最近、ペリリューの戦いで知られるパラオについても調べて、感動したばかりでした。

2019年9月16日 (月)
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その13。「開戦の詔勅」から「表現の不自由展・その後」まで、ツイートを時系列に。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/09/post-dcf82f.html

太平洋戦争について調べるとき、こうした「発見」は沢山出てきます。そうした国々が今も親日であることが、何よりの証拠です。日本人にとって、太平洋戦争はまぎれもなく大東亜戦争だったのです。

戦時中の日本人の美しい行為は、江戸初期生まれの萬子媛が神社という神域から今なお続けておられる行為に重なるものがあります。日本人にはこうした一筋の美しい流れがあり、それを絶やしてはいけないと思います。これほどのものを作り上げた文化は尊重され、継承されるべきものであって、貶められるべきものではありません。

| | コメント (0)

«ストウブで野菜ゴロゴロのスープ(のはずが、ほぼ野菜の煮物に)