当サイトで紹介した作家、思想家一覧

         ごく軽く触れたにすぎない人物から評論を試みた人物
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2010年2月 9日 (火)

久しぶりに来た、不吉な胸痛

久しぶりに来た、不吉な胸痛

 半時間くらい前(?)に、前兆らしきピリッとした歯痛があったが右側だったので、違うかもとも思った。

 が、やはり来た。刺し貫かれるような痛みが胸のど真ん中。久しぶりにフリーズしちまった。凍りついたようになったまま舌下錠に手が出せないでいたら、第二段。怖い。動けないまま第三段の痛み。それが遠のいたときに、ニトロペンを掴み、震える両手で破り、舌の下に。

 奥に突っ込みすぎて、唾液が出ない。焦ったが、溶け、効いた。

 4時だ。4時に4ななくてよかった。眠いわ……。

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昨日の夕飯

昨日の夕飯

 昨日の夕飯は、魚と野菜の焼き浸し、サラダ、ほうれん草の黄身あえ、じゃがいもと葱の味噌汁でした。

 小ぶりのカマスの開き。焼いただけでは淋しい気がしたので、石窯オーブンのレシピを参考に、野菜と組み合わせて焼き浸しにしました。

 鍋に市販のめんつゆ2カップと赤唐辛子1〜2本を入れ、煮立ったら火をとめて、薄切りにしたレモン1/2個を入れます。それに、焼いた魚と野菜を入れて10分ほど味をしみ込ませます。

 レシピではブリが使われていました。いろんな魚、野菜との組み合わせに応用できそうですね。

 レモンが半分余り、《風に吹かれて豆腐屋ジョニー》の小さなパックが残っていたので、きゅうりとトマトのサラダに使いました。

 ドレッシングは土井善晴先生のレシピで、オリーブ油・薄口しょうゆ各大さじ2、レモン汁1/2個分です。

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2010年2月 6日 (土)

文学仲間F氏から送られてきた個人誌とO氏からの電話

 F氏から個人誌が送られてきた。その個人誌にわたしは招いていただいたのだった。

 喫茶店で詰めた話をしたときに、バックナンバーと、それが新聞などに採り上げられた記事の保管されたファイルを見せていただいた。

 小学校の文集を連想されるお手製の冊子で、保育園のお子さんの挿絵がある。が、内容は一目見ただけで、しっかりした洗練されたものであることがわかる雰囲気を醸している。編集後記と冊子に添えられた挨拶状は極めて腰が低く、あっさりとしている。

 文学革命を、この可憐な個人誌で??? 爆弾の代わりに彼は雛菊を用いて、革命を起こすつもりらしいとわかった。

 面白い工夫だと思った。写真入りで新聞記事になったのも、なるほどだと思えた。しかし、これだけでは事態は何ら動かないだろうというのも推測できた。

 わたしが彼の個人誌に加わることで、雛菊がアザミに、あるいは礫に変容する虞れがありはしないか?  しかし雛菊のままでは可憐すぎる。このよさを消さずに有効活用できるのか?

 わたしにはわからないが、彼の個人誌は気に入ったので、とりあえず1号、ご一緒させていただきたいと考えている。それで雰囲気を壊すようであれば、以降はご遠慮することにして。

 喫茶店での話では年に2回の発行だということだったので、わたしは童話の目鼻がつく(完成といいたいが、夏までには無理かもしれない)予定の夏以降の号、すなわち後半の号に加わらせていただきたいと返事した。

 ところが今日の電話での話によると、次号は4月に出す計画だとおっしゃる。ムム……F氏のカレンダーでは1年は6ヶ月らしいとわかった。

 評論でご一緒させていただくつもりなのだが、今は童話を優先させたいので、4月までには書けない。それで、当ブログから生まれた作品である評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』は如何だろうかと打診してみた。

 それでもいいそうなので、4月までに新しい作品が書けそうになければ、それを載せていただこうと思う。

 新聞社以外にも、知っている編集者やコンタクトをとってみたい出版社などに送ってみたいと考えている。

 F氏の作品はペット葬祭業を題材にしたもので、キツネにつままれたような面白さがあった。舞台設定も、ストーリー展開も完璧といってよい出来栄えだと思う。彼の読書は日本文学専門らしいが、身辺雑記に陥らない、ストーリーテラーである彼の作品傾向は西欧的ではないだろうか。

 人物の描きかたに不足のあるところが惜しいといつも思う。あれこれ書かれてはいるけれど、誰それがあれしたこれしたで終わっていて、感情移入できるような登場人物が見つからない。

 わざとそうしているのかと思い、尋ねてみるのだが、わざとではないそうだ。人に会ったときに、わたしたちは相手の目を見、表情を捉え、声の響きに耳を傾ける。そうした描写は、人物に厚みを持たせるためには、どうしたって必要だ。

 くどく書く必要はない。ちょっとした表情を描くだけで、泥人形は呼吸し出すのだ。この点を改善して貰わなくては、文学革命ったって、お話にならない。プロの作品として書店に並んでいたとしても遜色ないF氏の作品であるからこそ、この点が何とかなればと思わずにいられない。

 F氏の次作を拝読して、個人誌に加えていただくかどうか決めるほうがいいかもしれない。酷な、あるいは独りよがりな注文かもしれないが、遊びでやるのではないから、この点を改めて彼にお便りで触れておきたい。 

 前日、O氏からもお電話があった。彼は16歳で家出して東京へ行き、ボクサーを目指したり喫茶店でアルバイトをしたりして糊口をしのいでいたが、経済ライターに拾われて、名のある同人誌にもぐりこんだりもしていたという。

 そのときに彼が耳にした文壇の裏話の中に、わたしが裏をとりたいと思っていたエピソードがあった。男女平等が進んだのに、それと反比例するかのように、女性作家の書くものから、なぜ誇り高さが失われたのかの原因をわたしは探っていた。

 そんな裏話を聴かなくても、表に出ている情報から原因の追究は可能だったし、論の組み立ても可能だと思うが、自身のために確証となるものがほしかったのだ。ただ、何にしても、これを作品のかたちにまとめるには、時期尚早だ。

 またO氏は、ある作家になら会わせてあげられるという。童話で出た作家だから、持ち込みを考えているわたしにとって、会って損はないかもしれない。うまくいけば、その作家のコネで児童文学関係の編集者に作品を見て貰えることだって考えられる。

 しかし、こうしたことで謝礼を弾まねばならなかったり、後々までそのために縛られるのであれば、こうした餌につられることは危険だ。その作家は何しろ、関アジ関サバを食べに来る人なのだから。

 それに、編集者とコンタクトでき、話が発展したとしても、賞を背景にデビューさせてあげるなどといわれたとしたら、お笑い種だ。ミイラとりがミイラではないか。わたしは何より、応募者を、賞を華やかなものにするための道具としか考えていない賞のありかたを告発したいのに(勿論、全ての賞がそうだといいたいわけではない)。

 そうだとしても、コネもなしに持ち込んだところで、ちゃんと見て貰える可能性は極めて低いようだ。で、この件については保留ということにし、O氏にもそう伝えた。

 自身を作家の卵と表明していたとき、人々は「ああ卵か」といって通りすぎるだけだったけれど、世に出たいと表明したとたん、あれこれ話が舞い込むようになった。どれもシャボン玉のような話ともいえるが、中には正当な手段で世に出るきっかけを作ってくれるよい話もあるかもしれない。注意深く対処したい。

 わたしのサイトを通して作品に惚れ、商業出版しましょうなんていってくれる出版人に出会えたら一番よいのだけれど。夢物語なのだろうか。

 この世のどこかにいらっしゃるはずの純白の糸で結ばれた編集者様、筋金入りのあなた様をわたしはお待ちしております。

落選続き、応答なし続きの作家の卵にとって、この上なく元気が出る本。ポパイのほうれん草(ちと古いかな)。頑張って卵を割ろう、世に出よう、飛翔しよう!

◆ミステリー作家ジョセフ・ハンセンの忠告

〔略〕
――1968年以来、わたしの長編・短編・詩で、断られてから出版されなかったものはただの一篇もない。もしきみが確固たる信念を持っていれば、そのうち確固たる信念を持った編集者とめぐりあうだろう。何年もかかるかもしれないが、決してあきらめるな。
 物書きというのは孤独な作業だ。部屋で一人、タイプを相手にすわり、毎日何時間も、何ヵ月も、何年も格闘しつづけなくてはならないばかりか、それだけ血と汗と涙を流して頑張ったあとで、なお、きみの書いたものに敬意を払い、そのまま出版してくれる人間を見つけなくてはならない。しかも、信じてほしい。これはその本がきみの最初の小説だろうと、31番目の小説だろうと、まったく同じことなのだ。

(『まことに残念ですが… 不朽の名作への「不採用通知」160選』編著者アンドレ・バーナード、監修者木原武一、訳者中原裕子、徳間文庫、2004年) 

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冬眠体質に逆戻り

 漢方治療の効力が薄れてしまったらしく、昨日辺りから冬眠傾向。睡眠が足りていないわけではない。漢方治療に入る前の体質に戻っただけだと思う。手はもう温かくない。

 漢方薬で心臓は鞭打たれて必死で働いていたため、体は元気一杯でありながらへとへと、精神状態も昂揚していて、手は温かかった。

 ひじょうに活動的になれたが、心臓がその状態にいつまで耐えられるのかという不安があった。また、その時点で、わたしの病気のベースにある頻脈のことを先生にわかって貰えていないという根本問題があった。

 結局、漢方治療に関しては、入りかけた段階――まだわたしに合う薬が模索されている段階――で、身が持たないと感じ、逃げ出してしまったわけだった。

 心臓はインデラル、ヘルベッサー、アイトロール、シグマートに守られて調子は悪くないが、負担を減らすために機能が落とされて、いわば消エネ状態にあるために、どうしても元気が出ない。精神力を振り絞らないと行動に移れず、一仕事終わると、螺子が切れたみたいに眠くなる。

 わたしのメイン業務である家事に関しても、ライフワークである創作に関しても、ここまで体が省エネ対策をとっていると、はなはだ差し支えるが、寿命を延ばすためだから仕方がない。

 漢方治療によって、頻脈そのものを改善できるのではないかと幻想に近い期待を抱いていたが、2週間通っただけでは、それが可能かどうかは全然わからなかった。仮に可能であったにしても、乗り越えなければならない山がいくつもあるという予感がした。そのためには、漢方治療を生活の中心に据える必要があった。

 いずれにしても、今年、わたしは創作に関して大事な局面に差しかかっているため、漢方治療を続けることは無理だと判断したのだった。といっても、冬眠してしまっては何もできなくなるから、この傾向が甚だしくなるとすれば、また漢方治療に戻らざるを得ないとも考えている。

 幸い、おなかに溜まっていた冷たいガスはかなり抜けていると思う。尤も、漢方の先生が診察なさったら、「太鼓の音がする」とおっしゃるかもしれないけれど。まあ、このまま、体力の乏しさや眠気と闘いながら、行けるところまでは行こう!

 わたしは今冷たい手でパソコンを打っているが、執筆には冷たい手のほうが向く。温かい手になると、家になぞ、じっとしていないのだ。 

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2010年2月 5日 (金)

のだめ、だめじゃん…シネマ『のだめカンタービレ最終楽章 前編』の感想

 Yahoo!映画レビューで閲覧した『のだめカンタービレ最終楽章 前編』の評判は比較的よかった。オーケストラの演奏に臨場感があってすばらしいという感想も、複数あった。

 最近オケを聴きに行けなくて飢えていたわたしは、コンサート気分を味わえるのではと淡く期待して出かけた。

 といっても、映画に生演奏と同じ種類の感動を求めるつもりはなかった。映画ならではのオケの描きかた、劇場ならではの大音響をうまく活用した映画的昂揚を期待した。のだめ(上野樹里)・千秋(玉木宏)というコンビの活躍も、原作者二ノ宮知子のファンとして当然ながら期待した。

 前後編仕立てという映画構成は、シリーズ物でも一話完結を暗黙の了解としてきた、これまでの映画提供のありかたを覆すやりかただが、そうするだけの何があるのか、知りたいとも思った。

 そして、期待は裏切られ、作品作りの甘さと商業主義の厚かましさを感じさせられただけだった。わたしのものだった時間と1,800円を、返せ!

 ドラマのほうがよかった。映画に比べると丁寧に作られていて、ストーリーにめりはりがあった。

 ピアニストを目指す若い女性――のだめのハチャメチャなキャラに包まれた心が時折、星のように孤高に光る。そんなのだめを誰よりも理解し、見守りながら、同じ音楽家として脅威も覚える中で自らも成長しようとする千秋。ふたりの絡みが、若者らしい爽やかさで描かれていた。

 ところが映画では、そんな事前の了解を観客に期待した横着さからか、唐突に始まり、間延びしたような工夫のないストーリー構成の中、これ見よがしに押しつけてくるパリの景観、大音響の音楽に寄りかかった手抜き手法がまる見えで、うら悲しくなった。

 前編の終盤でとってつけたかのように強調されるのだめの芸術家の卵としての苦悩は、説得力を欠いた。アニメや人形の使用は過剰だった。脇役たちの扱いはいい加減だった。

 生の演奏だと立体的に感じられる音楽が平板に感じられたのは、録音というものの限界から来た部分もありはしただろうけれど、それ以上に、映画作りの緊張感のなさに原因したのではないだろうか。せっかくのよい演奏が生かせていなかった。玉木宏扮する千秋の指揮ぶりも悪くはなかっただけに、もったいなかった。

 前後編にしなければならなかった意味など、何も見い出せなかった。

 原作の軽やかな味わいは、映画になったばかりに、どきつい、雑なものにトーンダウンさせられていて、気の毒だった。

 が、娘は結構気に入っていたようだ。夫は『サロゲート』を観て、もう一つと感じたような口吻だった。

 わたしは家で留守番して、恐竜の図鑑を見ていたほうがよかった(出かける前、自作童話に登場させる竜の参考とするため、図鑑を見ていた)。 

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