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(2012年11月28日更新)

ライン以下に、バックナンバーへのリンクがあります(最古記事及び1月の記事のみ)。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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2016年12月 7日 (水)

中年のプレXmas会、そして中学時代の恩師の思い出。萬子媛の小説について。

高校の同窓会と、中学校の――三年生のときの――クラス会は、発起人になってくれる人がいるお陰で、何年か置きに催される。

近ければ出席したいのだが、ここからは案外遠くて、博多で特急を乗り継いで往復で5時間、車で高速を使ってもそんなものなので、萬子媛の小説の第二稿のために祐徳稲荷神社にちょくちょく取材に行ければと思うのだが、なかなか行けないでいる。

実家があれば、帰省を兼ねて出席という手もあるが、現在、実家は更地になってしまったので、無理のないように計画するとなると、ホテルに一泊することになり、そうなると、億劫だ。

来年の初夏、中学校のクラス会が予定されているというメールが、友人からあった。

「悪いけど、行けそうにないよ」と返信すると、「えーっ、出席しないのぉ~!」とのメール。

その友人と、もう一人高校でも一緒だった友人と三人で博多で今月会う約束をしていた。時期的に、プレXmas会という感じになりそうだ。

このクラス会の連絡で友人が書き添えたのか、もう一人中学校時代の友人がプレXmas会に加わるという。

そうなると、なつかしいあの顔、この顔が瞼に浮かび、いっそ博多でクラス会をやってくれないかなあ、などと虫のよいことを考えた。さすがに、それは無理だろう。

恩師のチンタ先生がお元気であれば、先生は必ずクラス会に来てくださるだろうが、前回、中学校時代のクラスメートの顔を見たのは、チンタ先生の葬儀のときだった。

お棺の中の先生のお顔を友人達と恐る恐る覗き込むと、先生がいない!

「わあ、先生じゃないよ、先生のおじいさんよ! おじいさんがなぜ、ここに?」と誰からともなく声が上がり(わたしも思わず声を上げてしまった)、仙人のように白い顎髭を筆先のように伸ばしたお顔に釘付けになっていた。

すると、冷静さを取り戻した一人が「この方が先生じゃないの。先生以外の誰だっていうの?」といった。

考えてみれば、それはそうだ。お元気だった先生を最後に見たときは童顔らしいお顔が中学校時代とそんなに違わなかったため、お棺の先生を見て皆びっくりしたのだった。

入院中の先生のお見舞いには行かなかったが、男子が数人行ったといっていた。仙人のような風貌で、闘病なさっていたのだろうか? ナンというか、清潔そのものの厳粛な死に顔だった。

自分の死に顔を見てきゃーきゃー騒いでいるわたしたちを先生は雲の上からご覧になって、「相変わらずだな、この子らは……」と苦笑なさったに違いない。

チンタ先生の思い出は過去記事にも書いたが、先生は中学校の一年、三年のときの担任で、男子テニスを全国大会に連れて行ったり、朝の読書に力を入れたりと、若かったこともあって、本当にみずみずしい印象だった。

確か水瓶座だった。ユニークで、陽気で、人間味に溢れた人である一方では、とても厳しい人でもあった。

先生のお陰で、わたしは読書好きになった。小学校の高学年くらいから読書好きにはなりかけていたが、まだそれほどではなかった。

教室には、図書室の廃棄処分にされた古い本や生徒が寄付した本が並ぶ本棚が置かれ、生徒はその中のどれか一冊を選んで、朝の読書時間に読むのだった。

その間、先生は竹刀に似た竹の棒を持ってコツコツ、通路を歩いて行かれる。注意散漫だと、その棒で机をピシッと叩かれた。恥ずかしながら、わたしも何度となく、机を叩かれた口。

廊下を友人達と走り回って(長いスカートをバサバサさせてよく走り回るものだから、寝押しをしても襞はいつもとれかかっていた)、立たされたこともよくあった。

結婚披露宴に出席していただいたとき、先生はわたしが大学時代に詩や歌詞で受賞したことを話してくださったが、中学時代のわたしは文学好きにはおよそ見えなかったので、そのことにとても驚いたとおっしゃった。

でも、中学一年生のときにはもう文学が大好きになっていたのだ。交換ノートや詩を書きつけたノートの回し読みの流行には一役買っていた。

中学・高校時代を通して膀胱神経症に悩まされ、そのことは死にたいくらい深刻な悩みだったのだが、一方では底抜けに明るく、楽しい学校生活を過ごしてもいたのだから、不思議なものだ。

チンタ先生のお陰だと思っている。

実は、萬子媛の小説を計画しているときに先生の夢を見た。そのあとで、郷土史家との出会いがあったことを考えると(実際には、『萬媛』という絵本を出版された佐賀大学のグループに問い合わせて、郷土史家を教えていただいたのだが)、先生の見えざる助力があったのではないかと考えている。

それよりもっと前に見た夢の中で、あの世での先生の住居は祐徳稲荷神社のすぐ近くにあった。あの世を舞台とした夢だということが、夢を見ながらわかっていた。

先生の葬儀で、先生の親友が、先生はとても敬虔で熱心な仏教徒だったとおっしゃったことに、わたしは驚いた。

宗教のし、仏教のぶの字も感じさせない先生だったからだ。先生はわたしの文学好きに驚かれたようだったが、わたしはわたしで先生と仏教のつよい結びつきには心底驚かされた。

あの世での先生は、萬子媛のこの世に対するボランティア事業(?)と何らかの関係がおありなのではないだろうか、とわたしは考えたりしている。

そう思えば、萬子媛の小説の第二稿に入りかけたところで停滞しているが、時間がかかってもきちんと完成させなければと思う(先生に期待されているかもしれないと思えば)。

まあこの辺りのことは、自分のことを神秘主義者と信じきっている人間の脳内劇場だと解釈していただいて、一向に構わない。

そういえば、小説の第一稿は最終的に送りたい人々全員に送ったわけではなかったので、まずかったかなと思っている。回し読みしてくれたりもしているそうで、ありがたいやら、申し訳ないやら。

従姉からも「なぜ、わたしには送ってくれないの?」といわれてしまった。老眼にこたえると思って……ごめんなさい。

第二稿か第三稿になるかわからないが、完成したらコピー本か、印刷屋さんに頼んで簡易製本したものを送る予定。一般にはアマゾンで電子出版するので、興味のあるかたはどうか買ってください(小説ブログでの公開も考えている)。

ところで、今月会う友人の一人がルーツ探しに最近ハマっているとかで、わたしもネット検索を手伝ったりしていた。

寺のご住職からご先祖に関する伝承を訊いたり、図書館から村史の写しを送って貰ったりしているというから、本格的である。

それが、それによると、どうも彼女とわたしのご先祖はある時期、仇同士だった可能性が出てきた。最終的にはどちらも鍋島家の家臣となったわけだから味方同士だったともいえるのだが。

江戸時代に入ると、彼女のご先祖はおそらく鹿島藩、わたしのご先祖はおそらく佐賀藩の家臣だった。

サイト「武将系譜辞典」によると、母方の祖母の一族は戦国時代、大蔵党の一員として少弐氏の家臣団に属していたようで(戦国時代、少弐氏は北九州一円に勢力を張っていた)、氏の記載がある。その後、鍋島家に組み込まれたのだろう。サイト「日本の苗字7000傑」によると、祖母の家系は江上氏の分家だったようで、ウィキペディア「江上氏」を閲覧すると、流れがわかる。

友人がこうした方面に関心を持っているとは意外だった。萬子媛の小説も読みたいという。興味がないと思って、彼女にも送っていなかったのだ。

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2016年12月 3日 (土)

京都の景観に影響を与えた仏教復興運動、アジア主義、そして歌代幸子『音羽「お受験」殺人』から垣間見えるサラリーマン僧侶の労働環境

明治政府による廃仏毀釈、第二次大戦とGHQによる農地改革や洗脳工作などで、わが国の宗教が被った痛手は大きいが、フェノロサや岡倉天心による仏教美術復興運動、また欧米列強の植民地主義に対抗する「アジアは一つ」との目標を掲げたアジア主義……こうした運動がなければ、観光都市京都の姿はどうなっていただろうと思う。

こうした運動についてネット検索、図書館から本を借りるなどしてリサーチしているところだが、前記事で書いたように、このところ新たに判明しかけたことが半端ではなく、整理が追いつかない。

リベラルの影響力が弱まったことは確かで、逆にいえば、これまで如何に彼らが歴史的事実を隠蔽し、歪めてきたかがわかるというものだ。

そして、ブラヴァツキーの神智学が誹謗中傷の的となったのは、前述した仏教美術復興運動とアジア主義に大きな影響を及ぼしたことも理由の一つだろう。

今読んでいる坪内隆彦『アジア英雄伝 日本人なら知っておきたい25人の志士たち』(展転社、平成20)、戦前から戦後のアジア主義を捉えた『岡倉天心の思想探訪 迷走するアジア主義』(勁草書房、1998)を読んでいるのだが、『アジア英雄伝』には次のように書かれている。

アジア各地の伝統思想、宗教の復興、それと結びついた反植民地主義に与えた神智学の影響の大きさは、もっと重視されても良いのではなかろうか。(坪内,平成20,83頁)

だが、これを知られては、リベラルには都合が悪いのである。

現在のわが国で仏教が置かれた現状の一端を、お受験殺人事件と呼ばれた事件の渾身のリポートである歌代幸子『音羽「お受験」殺人』(新潮社、2002)の記述から垣間見た気がした。

加害者となった女性の夫がサラリーマン僧侶であったことや、当時の職場環境がどんなものであったかが詳しく書かれているのである。

わたしは事件に触発されて2000年5月に「地味な人」を執筆し、織田作之助賞に応募して三次落ちしていた。

拙作に登場する加害者となる女性の夫は流通業界に身を置くサラリーマンで、あの事件を再現しようとした作品ではないが、拙ブログ「マダムNの連載小説」で公開するにあたり、当時、参考資料とした『音羽「お受験」殺人』を再読したのだった。

事件のあらましを『音羽「お受験」殺人』を参考に述べると、1999年11月、東京都文京区に住む35歳の主婦山田みつ子は、当時2歳だった同区在住の会社員の長女若山春奈ちゃんを、寺の境内にある幼稚園に近接した公衆トイレで首を絞めて殺害した。

みつ子は僧侶の夫と5歳の長男、2歳の長女の4人暮らしで若山さん宅と同じ家族構成、子供二人の年齢が同じ、長男は共に同じ幼稚園に通っていた。みつ子は若山さんと幼稚園で顔見知りだった。今でいえば、ママ友である。

犯行当時、春奈ちゃんは文京区の有名国立大附属幼稚園に合格し、みつ子の長女は落ちていた。文京区は都内でも有数の文教地区として知られ、被害者である幼女が合格した幼稚園はその年の競争率が約22倍と都内でトップの人気を誇る名門であるという。

その合否をわけた直後の犯行であったことが「お受験殺人事件」として騒がれる原因となったわけだが、みつ子は受験と事件との関わりを否定し、春奈ちゃんの合格も知らなかったと供述した。

みつ子が犯行の動機について、「(春奈ちゃんの母親との)つきあいの中で、心のぶつかりあいがあった」(歌代、2002、9頁)と述べたことから、人々の事件に対する関心は受験から母親同士の確執へと移った。

事件を報じた朝日新聞、毎日新聞、読売新聞には、全国の主に30代の専業主婦から反響があったという。

事件の悲惨さに憤るものや、容疑者への批判と同時に、多くの主婦たちが、子育てのつらさやストレス、人間関係の難しさを訴えていた。『ひとごとではない』と山田みつ子に自分を重ね合わせる母親たちも少なくなかったのである。(歌代、2002、10頁)。

わたしは当時41歳だったが、事件の衝撃は大きかった。

58歳になったわたしが『音羽「お受験」殺人』を再読して改めて目が留まったのは、みつ子の夫がサラリーマン僧侶であったことや、その職場環境だった。

また、農家だったみつ子の実家が百年続く旧家だったことにも目が留まった。

この事件のやりきれなさは、事件を惹き起こした側に、日本人の古くからの心の拠り所や伝統、日本の歴史などがほの見えるところにある。

前述したことと重なるが、明治時代に神仏分離令が発せられ、国家神道が形成されるに至って、神仏習合が伝統的であった日本人の宗教環境は一変した。

明治政府の政策に伴い発生した廃仏毀釈(仏教破壊運動)の凄まじさは、ウィキペディアの以下の記述を引用するだけで足りるだろう。

明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
ウィキペディアの執筆者. “廃仏毀釈”. ウィキペディア日本語版. 2016-11-24. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88&oldid=62058078, (参照 2016-11-24).

そして、第二次大戦後にはGHQが発した神道指令によって神祇院が解体、神社本庁が設立され、これによって国家神道は無力化された。仏教も、農地改革によって寺社領が安く買い上げられることによって解体が進められ、これも無力化されたのだった。

再び前掲書『音羽「お受験」殺人』を参考にすると、昭和39年静岡県に生まれたみつ子は、埼玉県立衛生短期大学の看護学科に進んだ(埼玉県立衛生短期大学は1999年に埼玉県立大学短期大学部と校名変更後、2008年に廃止)。

みつ子の卒業論文「看護の立場から人間をどう観るか」の冒頭を、前掲書から引用する。

看護はすべての人間が、その一生において根源的に関わりうける生・老・病・死と直接取り組む領域の仕事である。つまり、肉体的にも精神的にも痛みを持っている時、もう一人の全然別の人間がその苦痛を感じとり、苦痛の追体験をすることから始まった仕事であると言えよう。言い換えれば、人間そのものが人間の生活のあり方や他人を見つめることがなかったなら存続し得なかったと言えるのである。(歌代,2002,56-57頁)

結びは次のような文章となっている。

こうなると、F・Nが述べるように看護はまさにartであって看護婦が生涯努力しつづけて築きあげていくものであり、看護者が生きるということと看護のつながりを考えていくことなのだろう。そして、だからこそ死の前に立たされた医学が無力であるのに対して看護はどこまでもあるのであり、またここからが人間のみがとりくめる問題として本当の看護が問われるのであろう。(歌代,2002,58頁)

文中のF・Nとはフローレンス・ナイチンゲールのことで、論文にはナイチンゲールが著わした『看護覚え書』を通して、彼女の考察がまとめられているという。

あの事件を起こしたのが、このように自覚的で洗練された文章を書いた人物であったことを知ると、二重に衝撃的である。

この短大時代に摂食障害が始まり、看護婦に向かないのではないかとの迷いが生じたみつ子は短大をやめようと考えたほどで、教官や友人に励まされて何とか仕上げた卒論だった。

摂食障害の原因は、郷里の大家族における複雑な人間関係にあるようでもあり(祖父の前妻の子である夫と姑の間で苦労する母親の姿を見て育ち、みつ子は母親には心配をかけまいとするいい子だった)、本人の完全主義的な傾向にあるようにも思われる。

だが、少なくとも短大時代には教官や友人との間に温かな人間関係があったのだろう。

短大卒業後、浜松医科大学付属病院に就職するが、患者の死にショックを受けて退職する。実家に戻って1年8ヶ月、引きこもりの生活をした。摂食障害はそのときにも起きた。自殺未遂も起こしている。

1986年に静岡市内の日本赤十字病院に再就職してからも、摂食障害は起きた。それを克服しようとしてか、三交代のハードな勤務をこなしながら休日にはボランティアの手伝いにも出かけている。

著者は、東京拘置所のみつ子に面会を求めて手紙を書き、それに昔から好きだったという八木重吉の詩を一編添えたという。面会は叶わなかったが、返信には「八木重吉さん私も好きです」(歌代,2002,228頁)との言葉があったそうだ。

わたしも、八木重吉の可憐といってよいような純粋な詩は好きである。

みつ子は読書家だったに違いない。看護師として勤務するには、あまりに感じやすいタイプなのかもしれない。

ただ、わたしのまわりの例からすると、看護師さんで精神的な問題を抱える人は多いようである。わたしが通った高校では、家計の負担を考えて、国立大学の教育学部と看護学校を併願する女子が多かった。

優秀な女性が看護師さんを目指したというイメージがある。

周囲に看護師さんが多いせいか、苦労話を聞く機会も多く、またわたしは心臓疾患による通院歴が長いため、顔見知りになった看護師さんから「一日に8回食事をとるのよ」と聞いて驚いたこともあった(毎回しっかり食べるそうだから、これは摂食障害だろう)。不倫、喫煙、流産、離婚……看護師さんには案外多いと聞く。

このことはつまり、優秀な女性であっても耐えられなくなるほどの過酷さが看護師という職業にはあるということだろう。

みつ子の実家は神道だったそうだが、日赤勤務のときに松原泰道老師の「南無の会」の法話に感動し、長野市の禅寺で開かれた南無行(夏期講習会)に母親と参加している。

法廷で「中学時代から法話を伺ったりするのが好きで、吸い寄せらせるように行った感じです。宗教というより、人間の生き方に関心がありました」(歌代,2002,61頁)と語ったという。

格調高くてわかりやすい解説が魅力的な松原泰道『禅語百選――今日に生きる人間への啓示(NON・BOOK-42)』(祥伝社、昭和47)は、大学時代からのわたしの愛読書である。

「南無行」でボランティアの受付をしていた十歳年上の僧侶が、みつ子の夫となった男性だった。「なんて、いい顔をしているんだろう。この人に悩みを相談したい」(歌代,2002,61頁)との出会いの印象であったという。

専業主婦は三食昼寝付などといわれ、これほどお気楽な商売はないように思われがちだが、実態はそうではない。

当時は専業主婦の多い時代であった。いい換えれば、女性の多くが専業主婦にならざるをえない社会状況があったということである。

サラリーマンは企業戦士といわれ、妻は銃後の守りであった。夫の仕事には妻の主婦業がしっかり組み込まれていた。

夫と妻と子は一心同体のように扱われ、全部ひっくるめて社会的評価が確定するという風なのだ。やがて社会は変化し、夫の仕事に組み込まれていた夫と子は除外されていくけれど。

会社関係の行事や交際が減った代わりに、考慮されていた勤務や転勤に伴う家族の事情は度外視されるようになっていった。家族のありかたをつくり上げるのが、社会あるいは政治だということがよくわかる。

こうした時代背景を考えてみても、サラリーマン僧侶の妻となったみつ子が置かれた環境は過酷すぎた。

1993年の結婚式直前まで、みつ子は看護師の仕事をやめられなかった(ということは、1986年から1993年までの7年間、日赤の看護師として激務をこなしていたのだろう)。

上京して新婚三日目から、音羽にある禅寺(臨済宗)の副住職の嫁として勤務がスタートした。寺からは6万円の給料が出た(みつ子は専業主婦ではなかったと著者が書いている)。

5時半に起床。6時に、夫と寺に読経に出かけた。6時45分に帰宅して朝食の支度。10時には寺へ出かけてトイレ、書院の掃除。昼に帰宅し、夫の食事の支度。午後も寺へ出かけた。

土・日の週末は、寺で座談会や法事の接待。家事と育児を計算に入れれば、自由時間は皆無だったのではないだろうか。みつ子は、郷里の母親には心配をかけまいとした。

郷里を離れてからも、田植えや稲刈りの頃には実家を訪れて、農作業を手伝ってきた。東京の自宅からは、一人暮しの母親を案じてこまめに電話をかけてきたという。(歌代,2002,37頁)

まるで苦行のような生活であるが、僧侶ではないから僧侶が得る社会的地位は得られない。いっそ彼女自身が尼僧であれば、楽だったのではないかと思えるほどだ。

それでも、みつ子は夫の不安定な立場を気遣い、不満を漏らさなかったという。

夫の立場がどう不安定だったかといえば、彼は、住職の二人の息子が後を継がないために寺の後継者として雇われだのだが、やがて住職の気持ちが変化したのだった。

住職は身内に継がせたいと思うようになったというのである。この後継者問題で住職夫妻との折り合いが悪くなったということらしい。

ひどい話である。

寺の後継者になれないことが最初からわかっていれば、みつ子の夫はそこへは就職しなかった可能性もある。寺を継げないとなると、将来に対する展望がなくなってしまうだろう。住居の問題一つとっても、先で寺を継げるのと継げないのとでは大きく違ってくる。

以下の記事がサラリーマン僧侶の職場環境を知る助けになる。

サイト「給料BANK」の住職・僧侶の給料や初任給を解説した以下の記事、

  • http://kyuryobank.com/kankon/jushoku.htm

読売オンライン「大手小町」における記事、

  • http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2011/0517/4099

お坊さんとの質疑応答サイト「hasunoha」の以下の記事、

  • http://hasunoha.jp/questions/2332

住職の気持ちが変化したらしたで、別の寺に紹介するのが筋ではないだろうか。これでは寺に騙されたも同然ではないか。ブラック企業さながらだ。

新婚当初から夫は部屋にカーテンもつけず、新聞もとらなかった。ゴミの処理の仕方から布団の干し方まで細かく指示したという。

これは、山田夫妻の新居が職場でもあったからではないだろうか。

前掲書には、次のような記述があるからである。

九四年、一月、長男を出産。自宅に戻ると、体調も戻らぬうちから、毎日のように訪ねてくる夫の客にお茶や食事の接待をした。この時の無理がたたって体の具合を悪くし、まもなく再入院している。(歌代,2002,135頁)

みつ子は実家で出産したかったが、住職への気兼ねと夫の食事の心配などから、それができなかったとも書かれている。

築二十余年という八階建ての賃貸マンションは天井の低い昔ながらの造り。四十六平米ほどの2LDKに住み、西側のベランダからは、すぐ裏手を走る首都高速が間近に見える。(歌代,2002,15頁)

このような住居で、赤ん坊が生まれたというのに、一部屋を来客用としてとっておかなくてはならないとしたら大変だ。

うちは、子供が小さかった頃には夫の同僚が狭い家に10人ほども飲みに来たりして、沢山用意したはずの食べ物や氷があっという間になくなり、慌てて暗い中を当時は少なかったコンビニへ走っていったことなど思い出すが、新婚時代に上司2人を招いたときを例外として、気持ち的には気楽だったから、家計さえ気にしなければ、当時は健康でもあったし、結構楽しかったような気もする。

しかし、みつ子が迎えなければならなかった客は、粗相があってはならない、気の張る客だっただろう。

檀家の夫婦によると、みつ子の寺での様子は控えめで、礼儀作法もできていたという。

法事の合間にはお茶をいただくのですが、そんな時もとても気をきかせてくれて、茶碗が空く頃にすっと現れて、お茶を入れてくださる。(歌代,2002,24頁)

旧家の出らしい、そして完全主義者らしいみつ子の姿である。

救いを求め、またみずみずしい関心を抱いて仏教の世界に入ったそこは、表向きの仏教しか存在しない世界だった。

山田夫妻が寺という職場で受けた非情な扱いから、明治時代の廃仏毀釈やGHQによって損なわれた現代日本の宗教の生々しい病態が見えてくる気がする。

仏教の世界ではつらい労働と将来の不安しか得られなかったみつ子が、今度はママ友の世界に救いを求め、かつての夫の身代わりともいえる、「なんて、いい顔をしているんだろう。この人に悩みを相談したい」と感じられるような友人を探したであろうことは想像に難くない。

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2016年12月 1日 (木)

第二次世界大戦では事実上イルミナティと戦い、敗戦後はイルミナティに育てられ…

このところ、ブログの更新が疎かになっているが、知的欲求が低下しているわけでも、神秘主義的な分野における読書や考察を休止しているわけでもない。

むしろ、情報の氾濫する中で取捨選択に時間をとられている状況といえる。

拙ブログ「マダムNの連載小説」で連載中の純文学小説と、江戸初期から中期にかかるころに祐徳院を主宰した花山院萬子媛をモデルとした短編歴史小説は全く別の時代の話だが、同じ日本という国土を舞台とした小説である。

短編歴史小説の第一稿が出来上がった時点で、これは粗描のような段階のものだから失礼だとは思ったが、過去記事でご報告したように、友人知人、読書好きの親戚、恩師に送ってみた。

ありがたいことにほとんどの方が電話や手紙、葉書などで感想をくださった。参考になり、第二稿にとりかかった。ところが、わたしの中で渦巻く違和感があり、遅々として進まなかった。

それがなんであるのかを率直にいえば、日本人の間に蔓延している唯物論を第一義とする、とても本心からとは思えない態度なのだ。

モデルとした萬子媛は祐徳稲荷神社の創健社として地元ではよく知られた存在で、当時は神仏混交の時代であったから、萬子媛は伏見の稲荷大神の分霊を祀ると共に敬虔な仏教徒でもあり、後に出家して黄檗宗の尼寺を主宰し、死期を悟って断食入定を遂げた。

わたしは物語性をあまり出さず、資料に沿った書き方をしたいと考えた。そして、書きたいと考えたことをとりあえず全て盛ってみたのが第一稿だったというわけで、読みやすいものだとはお世辞にもいえないものだった。

小説には賛否両論寄せられ、それはほぼ半々の割合だった。共感は歴史好き――史実好きといったほうがわかりやすいかもしれない――の人々から主に寄せられ、批判は物語性――ヒューマンドラマ――を重視する人々から主に寄せられたように分析している。

批判の中には、わたしが作品の最後のほうでほのかに匂わせた神秘主義的描写や作品に添えた「はじめに」の中で表白した神秘主義的なプロフィールに対する違和感ないしは反感などもあったのではないかと憶測している。

感想には、宗教的、あるいは神秘主義的なテーマを率直に話題にしたものはなかった。まるで、こうした事柄に対して語ることが禁じられているかのように。歴史的に、物語的に語ることは構わないわけだ。

前世とあの世に関するほのかな霊的記憶があるわたしは、物心ついたときから神秘主義者であるので、日本は違和感のある国であるが、特定の宗教に縛られずに済むという点では暮らしやすい国といえる。

それにしても、現代日本の唯物論的雰囲気はどこから来たのか――この疑問はずっとわたしの中にあり、長いこと解けない難問だった。

それが、民主党が政権を握ったころから徐々に解け始め、トランプ大統領の誕生が確実になった今、戦後長らく主導権を握ってきたリベラルの呪縛が解けかけたかのような世相と連動するかのように、かなり解けたのだ。

端的にいえば、アメリカはリベラル(フランクリン・ルーズベルトが構築したニューディール連合)にのっとられており、戦後GHQを通して日本もそうなったのだ。リベラルの思想はいうまでもなく唯物論である。

アメリカの公式文書ヴェノナファイルによると、フランクリン・ルーズベルト政権の中に300人以上のコミンテルンのスパイがいたという。「ハルノート」を書いたハリー・デクスター・ホワイトもその一人である。

コミンテルンとは共産主義政党による国際組織で、第三インターナショナルともいう。モスクワを本部とし、1919年から43年まで存続した。日本共産党はコミンテルン支部として1922年に誕生している。

GHQが仕掛けた洗脳プログラムWGIPについて、一般日本人も知るところとなり、昨年5月に関係書を数冊読んだところだった。江藤淳『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本(文春文庫)』(文藝春秋、1994)についてはもう少し早い2013年12月に読んでいる(2013年12月22日付過去記事)。

そして、これは今年の9月、イルミナティの設立者アダム・ヴァイスハウプトの著作が邦訳版で出ていることを知って読んだ。未来的ヴィジョンのない、方法論にのみ秀でた、単純な破壊思想には震撼させられた。

ヴァイスハウプトが設立した結社自体は1776年から85年までしか続かなかったが、その思想はフリーメーソンを侵食したことで規律、品格を含む様々な要素を取り込んで世界に拡散した。

すなわちイルミナティの思想はテロ組織の原理原則となって今も生きており、マルクス主義もイルミナティの影響を受けているというが、ヴァイスハウプトの著作を読めば、マルクス主義は何てイルミナティの思想にそっくりなんだろうと思う。過去記事を参照されたい。

2016年9月12日 (月)
トルストイ『戦争と平和』  ④破壊、オルグ工作の意図を秘めたイルミナティ結成者ヴァイスハウプトのこけおどし的な哲学講義
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/09/post-6501.html

2016年10月 6日 (木)
トルストイ『戦争と平和』  ⑤テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/10/post-7e01.html

さらに、衝撃的な事実を知った。

ソースの確認作業中なので、以下は単なるメモ。

イルミナティの設立に、財閥ロスチャイルド家の基礎を築いたマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが資金援助を行ったのだという。

それだけではない、1800年代にはルーズベルト家の一員クリントン・ルーズベルト(セオドア・ルーズベルトとフランクリン・ルーズベルトは親戚)がイルミナティに資金援助を行い、それがマルクス、エンゲルスの著作活動の資金になったというのである。

また1832年、アメリカの名門イェール大学に秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」が設立された。

ウィリアム・ハンティントン・ラッセルが、アルフォンソ・タフト、その息子ウィリアム・ハワード・タフトと共に設立した。

ウィリアム・ハンティントン・ラッセルはロスチャイルドとアヘン貿易を通してつながりがあった。フランクリン・ルーズベルトの祖父ウォーレン・デラノ・ジュニアはラッセルの会社の経営陣の一人だったという。

「スカル・アンド・ボーンズ」にはイルミナティの特徴が取り込まれたらしい。

「スカル・アンド・ボーンズ」のメンバー、ダニエル・ギルマンの教え子にジョン・デューイがいる。ジョン・デューイといえば、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズと共にプラグマティズムを代表する思想家ではないか!

このデューイの教育に関する思想がアメリカのみならず、戦後日本の教育界に大きな影響を及ぼしたのだ。

また「スカル・アンド・ボーンズ」のメンバーには、ヘンリー・スティムソンがいた。

合衆国大統領の第26代セオドア・ルーズベルトによりニューヨーク南地区の連邦検事、第27代ウィリアム・タフトにより陸軍長官、第30代カルビン・クーリッジによりニカラグアに派遣、第31代ハーバート・フーヴァーにより国務長官、第32代フランクリン・ルーズベルトにより陸軍長官に登用され、マンハッタン計画において日本に原爆投下の決定を検討したという暫定委員会の委員長を務めた。

イェール大学出身のアメリカの大統領は多いようだが、トランプに敗れたヒラリー・クリントンもエール大学(ロースクール)出身である。

第二次世界大戦におけるアメリカとの戦いは、イルミナティの目論みの中で行われ、戦後日本はイルミナティに育てられたといっても過言ではないだろう。

このことを知ったショックで、ここ数日ブログが書けなかったというわけである。

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以下は、中国を理解する助けになる河添恵子氏の講演の動画。


同じ河添氏が警告するヒラリー・クリントンに関する動画。10月23日に公開されたもの。


江崎道朗氏のお話は、アメリカを知る助けになる。

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2016年11月26日 (土)

ANNA SUI「ディズニー ツムツム」がかわゆい

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アナスイのアクセサリーを集めている娘が購入した、「ディズニー ツムツム」。

ツムツムって何のことか、オバさんにはわかりませんでしたが、「LINE:ディズニーツムツム」というゲームなんだそうですね。

そのゲームから来たネーミングだとか。キャラクターのチャームの販売は2個からで、ネックレスチェーンやブレスレットチェーンにチームをつなげることができるようになっています。

娘が選んだのは、くまのプーさんとスティッチですが、他にもミッキーマウス、ミニーマウス、マリー、ダンボ、オラフ、マイクがありました。

横と後ろからも撮影すればよかったのですが、ころころした感じです。

ミッキーマウス、ミニーマウスのパンツを履いたお尻が何ともいえない可愛らしさなので、そちらと迷っていました。

これからの季節、ツムツムのアクセサリーはセーターなんかと合いそうです。

アナスイのアクセサリーは見るだけでも楽しいですね。

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2016年11月25日 (金)

戦後、流通業界の基本理念となった左派系思想「経済民主主義」

ちょっと更新が滞ってしまった。

現在、はてなブログ「マダムNの連載小説」で純文学小説を連載中で、ブログの趣旨について述べた「はじめに」で次のように書いている。

まだ専業主婦が多かった時代に執筆した小説を今読み返すと、さすがに時代を感じさせます。
ですが、現代の日本社会で「ママカースト」などという恐ろしい――ある意味では滑稽ともいえる――流行語が生まれていることから考えると、小説で描こうとした問題が決して古いものとはいえず、また小説に描いた時代はわが国が格差社会に突入した日本の転換期でもありました。
つまり、16年も前に書いた小説であるにも拘わらず、挑んだテーマは現代日本で流行語になっているママカーストと同じものなのです。
こうした作品の内容から、古い作品だからと切り捨てる気にはなれません。「地味な人」のような小説は、今のわたしには書けません。当時は、ママカーストという言葉だけでなく、ママ友という言葉もありませんでした。

また、小説の「前書き」では次のように書いている。

日本社会を震撼させた音羽お受験殺人事件(1999年11月22日)に着想を得、2000年5月に脱稿した作品ですが、事件を再現しようとしたわけではありません。
子育て中に底なし沼……にはまってしまう女性もいるに違いないと思われたので、その底なし沼を何とか表現したいと考えました。
2005年になって、たまたま事件現場の近くを訪ねたので、現場に隣接する寺に行ってみました。日中でしたが、寺に面した通りは人通りが少なく、静かでした。娘が受験して途中で落ちた大手出版社が同じ通りにありました。
ワープロで感熱紙にプリントアウトした作品の保存状態が悪く、このままでは読めなくなりそうでしたので、改めて校正しつつ連載形式で公開していく予定です。
「織田作之助賞」で三次落ちした、原稿用紙100枚程度の小説です。

具体的にいうなら、「地味な人」は当時の日本社会の動きの一端を流通業界に勤務するサラリーマンとその家族を通して描こうと目論んだ作品である。

流通業が日本社会に与えた影響をテーマに描いた作品には、ノンフィクションの分野では、例えば、佐野眞一の秀逸な作品『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』(日経BP社、1998)』がある。純文学系小説家の作品では知らない。

音羽お受験殺人事件に着想を得た作品というのであれば、「織田作之助賞」に応募した作品の中には結構あったと聞いた。

事件の背景は複雑であるのが普通だから、事件のどういった側面に光を当てて創作しようと思うかで、内容の違いが生まれてくる。

いずれにせよ、受賞したのはあの事件とは何ら接点の感じられなかった作品であり、他の文学賞受賞作品やプロの純文学系作家の作品にもあの事件を考えさせるようなものをわたしは知らない。

わが国の文学界が「純文学など、ない」キャンペーン(純文学弾圧)を盛大に繰り広げた時期があったことを考えれば、仮にこうしたテーマで世に出ることができたとしても、その小説も作家も遅かれ早かれ潰されたに違いない(純文学を弾圧した連中が何者であったかが、今、明らかになってきている)。

「地味な人」を連載しながら改めて、あの時代が如何に日本社会の転換期であったかを考えさせられている。

わたしが流通業界に勤務するサラリーマンとその家族を通して小説を描こうと考えたのは、その世界しかよく知らないということもあったが(わたし自身は総合スーパーの衣料品部、某百貨店の食品部、某百貨店の出張所で働いたことがあるだけだが、夫を通じても流通業界に縁があった)、流通業が如何に日本の法律を変え、街並みを変え、文化に影響を及ぼしてきたかをつくづくと考えさせられたからだった。

応募小説を執筆するときには、夫にお世話になった。夫は流通業界に身を置く一サラリーマンにすぎなかったが、貴重な話を聞き、資料や本などを借りることができたのだった。

100枚内の小説にそう多くのことを盛り込むわけにはいかず、また専門的な説明は極力少なくするようにしたため、今読むと、もう少し説明があったほうがよいと思われる箇所が出てきた。

しかし、本文に加筆しすぎると、別物になってしまい、小説の雰囲気が壊れてしまうだろう。従って、脚注を利用して説明に幅を持たせることにした。

そうやって、連載14回まで終え、15回となって、流通業の基本理念となってきた「経済民主主義」について、脚注で説明を加える必要を覚えた。

流通業界の理論的指導者であった渥美俊一が経済民主主義を唱えたことは有名だ。彼はペガサスクラブを設立した。その影響の大きさを知るには、ウィキペディアの次の解説を引用するだけで足りるだろう。

1962年設立当初のペガサスクラブの主なメンバーは、ダイエーの中内功、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊、ジャスコの岡田卓也、マイカルの西端行雄・岡本常男、ヨークベニマルの大高善兵衛、ユニーの西川俊男、イズミヤの和田満治など30代の若手経営者が中心。会員企業数は急速に伸び、1969年には1,000社を超えた。渥美は、メンバーの経営者を率いて毎年アメリカ視察を行うなど、アメリカの本格的なチェーンストア経営システムを日本に紹介し、流通革命・流通近代化の理論的指導者として、草創期にあった戦後日本を代表する多くのチェーンストア企業を指導した。

ウィキペディアの執筆者. “渥美俊一”. ウィキペディア日本語版. 2016-09-11. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E4%BF%8A%E4%B8%80&oldid=61114514, (参照 2016-09-11).

経済民主主義について、わたしは応募小説執筆時は詳しく調べなかった。小説では次のように書いている。

「A…という日本のチェーン・ストアの理論的指導者がいてね。彼は《経済民主主義》を唱えるんだ」
「え、ケイザイ何ですって?」
「ケイザイミンシュシュギ。富める者も貧しい者もほしいものは手に入る社会を築こう、という精神のことをいうのさ。国民のすべてがほしいものは手に入る社会を、という意味。それには物価を下げればよいという理論なんだよ。(略)」

執筆しながら、民主主義という言葉が入っているものの、左派臭い理論だと思った。当時はインターネットが今ほど普及していなかったということもあって、疑問はそのままになっていた。

今回調べたところ、オンラインで閲覧できる論文がヒットした。その論文から経済民主主義の成立と歴史を端的に解説した部分を引用させていただく。

フリッツ・ナフタリの『経済民主主義』(1928年)は,ドイツ・ワイマル期の社会民主党系労働組合運動の理論と経験の中から生まれた。その後,ナチズムの時代には歴史の舞台から抹消されたかに見えたが,しかし第2次大戦後には,当初,旧西ドイツのモンタン産業において成立した被用者の同権的共同決定制度が,いまやドイツ資本主義の発展とともに労働者の経営参加及び超経営的参加として企業のなかに定着するとともに,ナフタリの『経済民主主義』は,労働者の同権的参加思想の源流と見なされ,この分野における「古典」(オットー・ブレンナー)としての評価が与えられてきた。

山田高生「カール・レギーンと経済民主主義の生成」成城大學經濟研究 159, 133-146, 2003-01-20 <http://ci.nii.ac.jp/naid/110004028031>(2016/11/12アクセス)

やはり左派系理論である。ダイエー創業者の中内功が毛沢東の心酔者であったことなども有名な話で、流通業界はわたしが想像した以上に左派の影響を受けているようだ。

前掲書『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』で描かれる中内功にはひじょうに純粋なものが感じられた。

経済民主主義には利点も難点もあるだろう。

ちなみに、ナチスが共産主義者を弾圧したためか、右派と勘違いしている人も多いようだが(安倍首相をヒトラー呼ばわりする左派の人々ってナンだろうか)、それは左派内の抗争といってよいもので、ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」である。ユダヤ人の虐殺の仕方から見ても、単純な唯物論に毒された左派系思想の持主以外には考えられない。

左派の問題点をわかりやすく指摘した投稿を「余命三年時事日記」で閲覧した。以下に引用させていただく。

1327 11/25アラカルト2
http://yh649490005.xsrv.jp/public_html/2016/11/25/1327-11%ef%bc%8f25%e3%82%a2%e3%83%a9%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%88%ef%bc%92/

鬱田高道
余命様、日本再生大和会の皆さま、告発作業お疲れ様です。
 日本の左翼といい、アメリカの反トランプリベラルといい、なぜ左翼は自国を破壊しようとするのか。そしてなぜ彼らは国民国家を無用の存在と考えるのか。左翼の価値観である自由・平等・人権・民主主義・反差別・反戦平和といった概念は、日本やアメリカという国民国家が無くても守れる、むしろ国民の自由や人権を規制し、外国人を差別し、そして武力によって国家間の問題を解決しようとする日本やアメリカやその他の全ての国々がこの地球上から無くなった方が、左翼的価値観をより守れると彼らが考えているからでしょう。
 左翼連中は自らの信じる左翼的価値観を守るために、本能的に国家を敵と認識し、破壊しようとしているのです。しかし本当に国民国家無くして左翼的価値観や世界平和は守れるのでしょうか。
 18世紀の大哲学者であるエマニュエル・カントは、フランス革命後「永遠平和のために」という著書を発表しました。どうすれば永遠の世界平和(カントの言う永遠平和)を実現出来るのかを考察した本ですが、カントはその方法として二つの仮説を提示しています。「世界国家」と「平和連合」です。
世界国家とは、個々の国家を潰して、地球全体を一つの国家とする方法です。
 国家が無くなって地球全体が一つの世界国家になれば、この世から戦争が無くなり、世界平和が実現しそうですが、カントはこの方法を真っ向から否定しています。
 人間は住む土地(つまり国)によってその持っている価値観に違いがあり、一つの世界政府が世界国家全体を画一的に統治すれば、必ず世界中の人々が反発を起こし、それが全世界的な戦争に繋がるからです。世界平和のために建設した世界国家が、世界中で戦争を発生させる原因になっては本末転倒だという訳です。ヨーロッパ版世界国家であるEUが、イギリスの反発と離脱に逢って崩壊の危機に直面しているのを見ても、世界国家は非現実的であるというカントの指摘は正しいと思います。
 カントがその世界国家の代案として提示したのが平和連合です。平和連合とは世界中の国家がその枠組みを維持したまま平和的に連帯し、世界平和を実現する方法です。20世紀の国際連盟や現在の国際連合は、このカントの平和連合のアイデアを下敷きにして生まれた組織です。現在の国際連合が色々問題があってもそれなりに世界平和に貢献し機能しているのを見ても、平和連合こそが現実的な永遠平和の方法であるというカントの指摘は正しいと言えると思います。
 ではカントの言う、住む土地ごとに異なる、人々が持っている特有の価値観、とは何か。それは伝統的価値観、つまり「保守主義」でしょう。カントは保守主義こそが現実的な世界平和の基礎だと言ってるんですね(笑)。
世界平和を守っているのは、本当は自称反戦平和主義者の左翼連中ではなく、我々余命支持者のような保守主義者たちなんです。
世界平和は保守主義を基礎とした国民国家の連帯によって守られている。その現実を否定し、世界中の国民国家を破壊し、世界国家を建設して、人類を全世界的な戦争とテロの泥沼に陥れようとしているのが、自称平和主義で反差別主義者の左翼たちです。まったく愚かとしか言いようの無い連中です。
 国民国家はその国の伝統的な所有者(マジョリティ、多数派)が、差別によってその数的優位を維持しなければ崩壊します。ナチスドイツのユダヤ人虐殺のような過激で非人道的な差別は駄目ですが、国民国家の枠組みを守るための人道的・道徳的な範囲内の差別は必要です。
 地球上の全ての国民国家が崩壊し、世界政府が世界国家を統治する世界とは、ちょっとイメージすれば分かりますが、それは地球全体が一つの独裁国家になった状態です。少なくともそうなる危険性は多分にあると思います。
 左翼よ、なぜ国民国家の破壊と「独裁世界国家」の建設が、世界平和を実現するんだ?
 国会が幾つもの政党に分かれて、お互いにその行動をチェックし批判し合う事で、国の自由や平等や人権や民主主義が守られているように、世界が複数の国に分かれて、お互いにその行動をチェックし合う事で、世界中の自由や平等や人権や民主主義は守れているのではないか?
 地球上から国民国家が消滅すれば、左翼的価値観である自由や平等や人権や民主主義も、この地球上から消えて無くなるのではないか?
 実は国民国家を守ろうとしている我々保守主義者こそが、保守主義だけでなく、世界の左翼的価値観すら守ってあげているのです。
 世界中の左翼連中が行っているのは、ただの無意味な破壊に過ぎません。
 保守主義と国民国家と平和連合(国際連合 )さえ有れば、世界平和も左翼的価値観も自動的に守られるのですから、左翼主義者や左翼政党や左翼マスコミなど、もうこの世に必要無いのかも知れません。
長文、失礼しました。

わたしは左派系思想に強い影響を及ぼしているイルミナティ思想こそが問題だと考えている。以下は当ブログの過去記事より。

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

2016年11月13日 (日)
ドナルド・トランプ米大統領の誕生と戦後体制の瓦解
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/11/post-7bd2.html

トランプ米大統領の誕生で、あちこちで崩れかけていた戦後体制が一気に崩れそうな気配がある。

戦後体制を築いたのはいわゆるリベラルといわれる人々で、この中にイルミナティの思想の入り込んでいるのが問題だった。

1776年、アダム・ヴァイスハウプトによってつくられたイルミナティ結社の思想はひじょうに粗悪なものである。

ヴァイスハウプトの著作の内容自体がひどいものだから、そうならざるをえない。しかし、一方、テロの原理原則となったその方面の方法論だけは秀でていたのだから、イルミナティの思想の危険度は推して知るべし 。以下の過去記事を参照されたい。

2016年9月12日 (月)
トルストイ『戦争と平和』  ④破壊、オルグ工作の意図を秘めたイルミナティ結成者ヴァイスハウプトのこけおどし的な哲学講義
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/09/post-6501.html

2016年10月 6日 (木)
トルストイ『戦争と平和』  ⑤テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/10/post-7e01.html
(……)しかし、イルミナティを結成したアダム・ヴァイスハウプトの著作に表れた思想は人類に光をもたらすような思想ではない。
アダム・ヴァイスハウプト(副島隆彦解説、芳賀和敏訳)『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』(KKベストセラーズ、2013)を読んだ限りでは、彼の著作はテロを目的とした堅牢、それゆえに非人間的な組織作りの指南書であるにすぎず、ヴァイスハウプトは哲学教授でありながら哲学に極めて貧弱な理解力しか持っていなかった。
ヴァイスハウプトのいう「〈原初の〉黄金時代」は、言葉だけのまやかしのものだとしか思えない。
『ロシアを動かした秘密結社――フリーメーソンと革命家の系譜』の中の次のような文章が印象的である。
1930年代後半に吹き荒れたスターリンの政治粛正の嵐によって、アナーキストの神殿騎士団も様々なオカルト集団もソビエト社会から根こそぎ抹殺された。そしてロシアの大地に地下の秘密組織も反抗する者も存在しない全体主義の政治体制と平等主義の社会――均質で眠るように穏やかで静寂な精神世界が確立された」(植田,2014,p.284
それはまるで墓地のような精神世界であるが、要するにそれがアダム・ヴァイスハウプトのいう「〈原初の〉黄金時代」なのである。
(……)

イルミナティの思想はフリーメーソンを侵食したことで規律、品格を含む様々な要素を取り込み、やがてイルミナティのラジカルな思想の影響を受けたマルクス主義や新自由主義が世界に拡散したのである。

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«わあ、リラックマのおかず皿だ~!